そして田中さんは静かに答えました。
「悲しいとかそういう気持ちよりむしろ、自分の胸に息子の灰を抱くことが出来て・・・自分の手で子供の灰を葬ることができてよかったと思ったの。だってそうでしょ?みんなどこで亡くなったかわからず骨すら家族のもとへ帰れない時代。私もどうせ死ぬのだから、せめて息子の灰を抱けてよかったと。それが戦争だから。そう思おうとしてたの。だけどね・・・・8月15日に終戦。そのとき初めて私はとめどなく涙を流したわ。たった6日前に亡くなった息子の死・・・だったらあれはなんだったのって。私にとって戦争は終わらなかった・・・悲しみはそこから一気に噴出し・・・涙が止まらなかったの。」
と。そこで初めて田中さんの目に涙があふれかえり、いつまでもハンカチでぬぐっていらっしゃいました。
田中さんにとって、決して終戦ではなく、そこから悲しみを悲しみと思える人間としての感覚が戻った日。彼女にとってはむしろそこから戦争への憎悪、そして我が子を亡くした苦しみとの闘いが始まったのです。


時代が時代なら・・・救えたであろう幼い命。恐怖のあまり泣きつかれてお母さんのおっぱいすら受け付けず泣き疲れて亡くなってしまった生後100日の我が子。そのお話をされたとき私は独身ではありましたが、人の死が当たり前の世の中というのは、人間の感情まで押し殺してしまうなんて恐ろしい世の中なんだと涙が止まりませんでした。
今母となり、この話をもう一度VTRや取材メモで見返したとき、私は、もし自分がその立場だったら・・・とか考えたらまるで想像がつかないばかりか自分の胸で亡くなっていくことになすすべなく、それを受け入れることができるだろうか・・・とかいろいろ考えてしまいました。なにも出来ない赤ちゃんに精一杯のことが出来なかった悔しさ・・・それは死ぬまで母親として続く苦しみになるのではと思ったりもしました。
私だったら・・・絶対耐えられない・・・きっと息子を追うだろう・・・。

結局、その2度にわたる数時間の釜石の艦砲射撃で1万7千人あまりのも人が被災し、750人が亡くなったといいます。その中に防空壕へ逃げた田中さんのお姉さんと5歳になるお姉さんの子供も含まれています。
「後で来た話では母が防空壕のほうへ行くとその防空壕は爆撃で崩れてあとかたもなくなっていて。人はパニックで逃げ惑うばかり。母がいったときはそこに姉の首だけが地面から出ていて、まだ姉は生きていたそうなの。姉は、この下に子供が埋まってるから誰か助けてくださいと叫んでいたそうなんだけど、誰一人助けてくれる人はいなくて。気がついたら姉は逃げる人に踏まれていつのまにか地面に埋もれていったそうなの。戦争ってなにが怖いって・・・人間の醜さ・・・これが出ることよね。普段なら考えられないでしょう?」
と田中さんは最後におっしゃりました。もちろん当時の…その息子さんの写真なんてありません。ただ一つ言えるのは田中さんの体に新しい命を授かり産声をきき、田中さんのオッパイを吸って元気いっぱい育っていた息子さんがいたという事実。そして母親の胸で亡くなったという事実。写真がなくて…何十年たっても息子さんの一つ一つを覚えているという事実。

ほかのお話をうかがった方の中でもその時代の「色」が思い出せない・・・すべて白黒だとおっしゃる人のなって多かったことか。戦争とは人間の感情や感覚そのものを麻痺させてしまうのです。
我が子をこの胸に抱ける幸せ・・・。そして人の死を悲しいものと思えたり、喜びを喜びと思える幸せ。人間として人間らしく生きられるこの幸せが続くよう祈るとともに、過去の惨劇を決して忘れてはならない、伝えていかなくてはならない8月15日なのです。

また是非、ほかのかたの話もご紹介したいです。