退院後の私 




 三度目の退院後は、借金こそありませんでしたが貯金も無くなりました。でも、何事も無かったように過ごすのも大変でした。

 本当は家計の方は苦しかったと思いますし、今でもその日暮らしみたいなものですが、穴埋めはワンちゃんや猫ちゃんがしてくれたと思います。

 どうにか商売もやめずに続けている事が出来ていますが、それは妻もお客さまも理解してくれているからだと感じます。

 毎日何気ない一日であろうが、健康でいられるだけでも幸せを感じますが、自分の欲しい物がすぐに手に入らなくても、それは、本当はあまり日々の生活で困るものではない様に思います。

 どちらかと言うとプライドとか価値観で決まる事のように感じます。私は幼い頃は、遊び道具は作っていたように思います。

たとえば、竹トンボや飛行機や竹馬なんかもおじいちゃんに教えてもらって作っていたように思います。

それから、船も新築の家を立てているお家に行き、大工さんに要らない木材をもらって作っていたように思いますね~。

自画自賛ではありませんが、潜水艦も鉛を使い作ったのを覚えています。何であれ幼い頃は「欲しいよ~」て、ねだっても買ってくれなかったのが現実でした。

10円が欲しくて薪割りとか風呂焚きとか、焚きつけの松葉を集めたりしてお手伝いをしていました。

田植えも草取りも稲刈りも子供なりに必死で手伝ってやっと10円をもらい、随分と離れたお店(駄菓子屋)に行き、飴を買っていました。

今のようにお菓子は豊富にはありませんでしたから、今から考えるとくだらないかも知れませんが、当時は飴を買う事が嬉しかった時代かも知れませんね。

鉛筆やノートは、叔父や叔母のお下がりで新しい物を買ってくれるのは少なかったかも知れませんね~。

でも、このお下がりのノートが役に立ちました。それは、大切な事は書き残しが残っているので、大いに役に立ったように覚えています。

無論新しい物は嬉しいのですが、古い書き残しが今では懐かしいように感じます。たまたま弟が弱かったので明治生まれのお爺ちゃんとお婆ちゃんと暮らした事は、私にとっては楽しい思い出になっています。

大変厳しいとこもありました。それは、食べ物で出された物を食べないと「もう食べなくていい」と叱られ、泣いた事は何度もあります。

煙草も作っていましたので薪割りを散々やらされました。そして、収穫した煙草の乾燥を家でしていたので薪がたくさん必要だったのです。

これまで生きてきて嬉しかったのは、お風呂場に水道が通った時でした。それまでは近くの掘りまで水汲みをしていましたから、雨が降ろうと雪が降ろうとバケツを持って走って取りに走っていましたからね~ひねると水が出ると言う事に嬉しかったですね。

こんな経験は今の子はないでしょうけどね、家族も叔父や叔母もいましたから多かったです。だから、後になれば水を足してまた火をおこし追い炊きみたいな事をやらされていました。

この事を叔父や叔母と話をすると「ほんま昔は大変だった」と大いに話がはずみました。でも、今では懐かしい思い出に変わったと言えます。

今のようにテレビもありませんでしたが、楽しかった思い出の方が多いように思いますね~。

学校の帰りによその家の柿を食べるのも楽しい遊びの一つだったのかも知れませんね~。

よくよく思い出してみると楽しい思い出がたくさんありますね~この楽しかった思い出は次回書きたいと思います。

今日は随分変な話になちゃいました。ごめんなさい

追伸

やはり腰が痛いです。歳のせいかな?この書き込みを読んで頂いている頃には、草刈りが終わっているかもね。


               マーボー