死生観という大げさなものではありませんが、そういうことを記載します。知人のお嬢さんの死、そしてまた職場関係の若い方の突然の訃報に接したことをきっかけにして、自分なりにそれを整理した、あくまでも私、個人の死生観的なものです。こういう話題を避けたい、苦手な方は、スルーしていただいた方が良いかもしれません。

昨年の12月初旬にざっと書いていたのですが、アップしそびれていました。そのままお蔵入りかなとも思っていましたが、リスペクトしていたブロガーさんの旅立ちもあり、少し加筆してアップすることにしました。

 

(以下、比較的長くなってます)

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がんサバイバーの治療に対峙する姿勢は、それまで経験してきたいろいろなものが強く反映する。もっとも、他の病気ではそれらが反映しないと言うつもりはない。”がん”は考える時間が長く、例えば教育や仕事や環境や宗教感など・・・挙げればきりがない多数の事柄が、治療に臨む態度に関わってくる(同様に、罹患期間が長い病も同様)。考える期間が長いことから、”準備する”時間があると考え、「どうせ死ぬならがんで死にたい」と言う医師は少なからず存在し、しばしば論議呼んでいる。

 

そういう考えに、賛同するサバイバーもいるが、批判的であるサバイバーが多い印象だ。上述の様々なバックグランドに加え、がんに罹患した時の歴年齢、家族の状況、治療期間、がんの種類、そのステージ、治療の効果、現在の状態などに依って、そういう事柄に対する考え方はいろいろ在って、というか異なって当然だろう。

 

それを望んでがんになってしまった訳では決してないが、またそれを積極的に主張するわけでもないが、自分はおそらく「どうせ死ぬならがんで・・・」という考えに近い。

知人お嬢さんの突然の命の途絶を真近に見てしまうと、彼女の伝えられなかった、伝えたかった様々な思いがあったはずで、そう思うと時間があるほうが・・・・と考えることはむしろ当然と言えば当然か・・・。

 

こういう思いは、実はがんになる前から思っていることころがあって、自分の死生観と言ってよいものから来ていると考えている。 今、がんが静かにしている、よい状態だからそう思える可能性も考えられなくはないが、どうあっても根底は変わらない、と思える自分がいる。

 

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死ぬことを恐れてないでしょ? そんな感じだよね・・・

 

20代半ばに、何回か言われたことがある。

別に自暴自棄になっていたわけではない、天に唾吐く様な生き方をしていたわけでもない、逆に達観していたわけでもない。

 

どうしてそう見えたのかははっきりとした理由を聞いたことはないが、自分の中では、思い当たる節があり、それはたぶん小さい頃に何度か死に近づいた事、現実的にそれを身近に感じた事が影響しているのだろうな、とは考えていた。

 

蒸気機関車

小学校に入る前年の事。

結構な田舎に住んでいた。が、鉄道は走っていた。田舎ゆえ、生活空間と線路の境目はほぼなく、またたまにしか汽車も通らなかったので、普通に線路に入っていた。

その日も、線路の傍を走っていたら「た◯○!」と後ろから母親の声が聞こえて、立ち止まったら、鼻先を汽車が通って腰を抜かした。逆光で見えていなかったのだ。汽車の近づく音は認知していなかったのに母親の声は聞こえたフシギ・・・。

 

タイムマシンタイムマシン

小学3年の冬。

ずっとお腹が痛く 節分の朝、通院準備をしていた。

トイレに入った瞬間、お腹が爆発したような痛みに襲われた。

 

病院到着と同時に入院。

小児科病棟に入院するはずが、いっぱいだったので?混合病棟に入院。ベット上で苦しんでいた時、同じ部屋の患者を診察するために、外科所属の若い女医さんが病室に来た。

 

その患者の診察が終わった後、「あら、た○○くん、入院していたの?」と、そこに自分が横たわっていることに気づいて声をかけてくれた(らしい)。その女医さんが小児科でインターンをしていた時に、お世話になっていたのだ。

 

「どうされたんですか?」

と、お袋に症状を聞くや否や、お腹を触診。

その後、移動式レントゲン(現在はありません)が病棟に運ばれてきて、お腹の異常が発見された・・・。

当時流行していた腹痛を伴う風邪と見立てられていたものが、実は虫垂炎(盲腸)だったのだ。

 

緊急手術により、虫垂炎破裂、および腹膜炎ということが判明。

手術後は三日三晩意識がなく、次に目覚めたときに「ここが天国か」と思ったことを覚えている。酸素テント(今は鼻カニューラかマスク)に入っていて、目をあけたらビニールが光っていてキラキラしていたからだ・・・。

 

当時も今も、他科の患者を触るのは、それも若手医師がそれを行うことは、ほぼ有り得ない。

その女医さんに気づいて貰えなかったら••• 

そしてアクションを起こしてくれなかったら••• 

また敗血症を起こしていたら•••

 

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物心ついてから小学校高学年までは、かなりひどい小児喘息だった。

季節が変わる度に発作が起きた。

ぜぃぜぃぜぃぜぃ、座っても寝てもその中間でも息を吸うこと自体が苦しかった。

発作がない時でも当時はプール・運動禁止で(今じゃありえない)、体育の時間が何かのバツとしか思えなかった。

 

そんなある日、自分の死生感にかなり影響を及ぼす事件が起きる。

 

深夜、発作でうつらうつらしていた時、襖から明かりが漏れていた。

居間で両親が話していた。

 

襖まで行き、聞く耳をたてると・・・

「○◯○は20までは生きられないね・・・」 

 

自分は20まで生きられないのか?

その意味を、朝まで考えていた。

 

惑星光クラゲ宵夢

 

いつの頃からか、星や宇宙の成り立ちに興味を持った。

小学生高学年の時には、なけなしのお小遣いを投入して「天文ガイド」を購入していたほどだ。

 

晴れていても曇っている様に見える(=天の川です)ほどの田舎空を見るたびに、今見ている光が、最も近い恒星であったとしても4年前に発したものだという事に、宇宙の広さにおののきながらも、さらに遠くの宇宙に思いを馳せた。

 

宇宙が誕生して65億年。

地球が誕生して35億年。

人類が誕生して100万年

文明はたかだか2-3000年。

人の(理論上の)限界寿命は130年。

寿命は70年。

 

ほんの一瞬だ・・・

刹那の意味を考えていた。

 

レポートレポートレポートレポート

気が付いたら20歳を超えた自分がいた。

 

中学以降は、喘息発作が出なくなり、それまで禁止されていた”運動(スポーツ)”に興じた。

いろいろなコトにチャレンジし、病弱だった自分はどこかへ行ってしまった。

 

叔父や叔母も、た○○(ちゃん)がねぇ~ 

こんなに丈夫になっちゃって、しかも一人暮らしをしているとはねぇ~・・・・

と、関心された。

まあ、親戚中から”20まで・・・”と思われていたことは間違いない。

 

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そして、今。

7年前に発覚した直腸がん(ステージ4)、そして肺転移した自分。

 

あきらめているわけではない。

できるだけ長くとは思っているし、そうなる可能性が高くなるようなことを考えながら、日々過ごしている。

 

死は避けたいが、それほど怖くはない。

ただ、その時は苦しみたくない、とは思う。

 

今、状態がいいからか?

否、去年の酷い状況のときでも、そういう考えを抹消することはなかった。

 

与えられた自分の期間はわからないが(元々そういうものだ)、

それに関わらず全うしようと、自分らしく。

 

がんになってからまる6年。

ずっとそう考えてきた。

 

今はそれが出来ている。

むしろ想定以上に。

 

問題は次のステージだ。

 

それも乗り切れる。

自分らしく•••