報国寺のあとに
急遽、お伺いいたしました。
初めての参拝です。
広さに驚きました。
観光客はほとんどいませんでした。
前記事のコメントに嵐雪さんが
分かりやすく例えてくださいました。
~博物館の展示物が「建長寺」なら、
館内の喫茶店は「報国寺」~
館内の喫茶店は「報国寺」~
(^o^)/
建長寺が所在する山ノ内は、幕府のある鎌倉の中心部からは山一つ隔てた所に位置し、鎌倉の北の出入口の護りに当たる要衝の地であって、北条氏の本拠地でもあった。建長寺の境内が広がる谷(鎌倉では「やつ」と読む)は、元は「地獄ヶ谷」と呼ばれる処刑場で、地蔵菩薩を本尊とする伽羅陀山心平寺という寺が建っていた。建長寺の本尊が禅宗寺院の本尊として一般的な釈迦如来ではなく地蔵菩薩であるのは、こうした因縁によるものである。
~ウィキペディアより抜粋~
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20200902/17/santadog0109/9f/7e/j/o0810108014813546311.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20200902/18/santadog0109/d0/d3/j/o0809108014813563204.jpg?caw=800)
この後、再び忘れ物を探して
報国寺へ参りました![チュー](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/008.png)
![チュー](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/008.png)
無学祖元禅師は円覚寺と建長寺
を兼住されていたのですね。
元寇の頃、国の一大事に執権北条時宗に
「莫煩悩」と書を与えたり
「驀直去」つまり「前へ向かい、回顧するなかれ」と言う意味の言葉も時宗に伝え、
精神的な支えになっていたとか。
ウィキペディアをざっと読むだけでも
大変な時代だったのだと
感じることができます。
長く続いた平安時代のあとに
武士の台頭によって
変化していった、いや軌道修正されて
いった時代。
今、この時代、世界もまた
軌道修正されている真っ只中なのですね。
そして、教えて頂いたように
それをどう担うかは地上社会、人間の責任
なのだと。
ありがとうございました。