6歳のとき、父の転勤で東京からアメリカに引っ越しました。
場所はサンフランシスコ・ベイエリア。バーリンゲームという、アッパーミドルのファミリー層が住む郊外です。
帰国子女って聞こえは良いかもしれませんが、私にとっては正直、黒歴史です。
今日はその時のことを、少しだけ書こうと思います。
いきなり現地校へ
引っ越し当時、私は英語がまったく話せませんでした。
二年生から現地の小学校に通い始めましたが、最初のクラスにたまたま日本語も話せる日本人の子がいて…その子のおかげで、なんとかやっていけました。
だけど、三年生になると、その子はボストンに引っ越してしまいました。
クラスには日本人が一人もおらず、私は完全にひとりぼっちに。
いじめられたわけではないけれど、英語がわからない子として浮いていました。
だから授業中もずっと静かに。周りの子の会話についていけず、誰かが声をかけてくれるのをただ待つしかありませんでした。
初めて書けた「英語のパラグラフ」
四年生で、やっと初めて英語でパラグラフ(段落)を書けるようになったとき。
先生もクラスメイトも褒めてくれたけど、どこか腫れ物に触るような感じがしました。
「特別扱いじゃなくて、普通に接してほしいのに…」
そう思うたびに、心の距離が広がっていったように思います。
五年生でようやく友達ができたけど
やっと五年生のとき、ある転校してきた日本人の子をきっかけに、アジア系アメリカ人のグループに混ざれるようになりました。
でもある日、白人の子たちの会話が耳に入ってしまって。
「あの子(私)、英語わかるくせに、わかんないふりしてない? アジア人の前では普通に喋ってるのに、私たちには無視するんだよね。やな感じ。」
…聞かなければよかった。
「自分の態度がそんな風に見られてたんだ…」と萎縮してしまい、また他の子たちと距離を置くようになってしまいました。
中学でやっと「慣れた」と思ったら
六年生で中学に上がると、ESL(英語を母語としない子のための授業)も少し減って、やっと普通のクラスにも入れました。
中学には庶民的な地区の子たちも多くて、クラスの雰囲気もすごく良くなったんです。
でもある日、授業中にぼーっとしていたら、先生に「やっぱり理解してないのね」と思われて、ESLのレベルを下げられてしまって。
…そんなつもりじゃなかった。
「私はできる」って、やっと少し自信が持て始めたところだったのに。
それでも一番楽しかったのは
その頃、アジア系の友達とは何かがきっかけで疎遠になっていて、代わりにESLに入ったばかりの子たちと仲良くなりました。
英語ができないことを恥ずかしがらず、必死で頑張ってる彼らの姿にすごく勇気をもらった。
その時期が、私にとって一番「自分らしくいられた」時間だったかもしれません。
そして、本帰国
「さあ、これからもっと英語を頑張るぞ!」
そう思っていた矢先、突然「日本に帰るよ」と言われました。
…正直、帰りたくなかった。
こんなに苦労したのに、やっと馴染めたのに。
ESLを卒業できなかったことも、ずっと心に引っかかっていて。
「私はダメだった」って、どこかで自分を責め続けていました。
大人になった今…
それから何十年も経って、39歳で再びアメリカへ。
実は、あの時の思い出を塗り替えたくて、同じベイエリアを選びました。
悔しかった記憶、悲しかった経験。
今度は「自分の意志で、ここに生きる」と決めたくて。
過去の自分を、少しずつでも癒していけたらと思っています。
おわりに
「帰国子女」って聞こえはいいけど、実際は孤独や葛藤を抱えている子も少なくありません。
私もそのひとりでした。
でも、あの時の経験があるから、今の「共感できる自分」がいるのかもしれません。
もし似たような経験をした方がいたら、ぜひお話しましょう☺️