『秋の中ごろから冬の初め、試みに中野あたり、あるいは渋谷、世田が谷、または
小金井の奥の林を訪うて、しばらく座って散歩の疲れを休めて見よ。これらの物音、
たちまち起こり、たちまちやみ、次第に近づき、次第に遠ざかり、頭上の木の葉
風なきに落ちて微かな音をし、それもやんだ時、自然の静簫を感じ、永遠の呼吸
身に迫るを覚ゆるであろう。』
国木田独歩 『武蔵野』
望んでも、もはやかなわぬものであります。かつての武蔵野の情景は、独歩の
作品など、いくつかの記述でしか伺い知ることはできないのでしょうか。
ここでの武蔵野は、林、谷、細流、曲がりくねった路などの姿を借りていますが、
荒漠たる萱原なども重要な風景となっています。しかし、それこそ現代の東京
近郊では望むべくもないものです。
私は、ゆくりなくも40年ほど前に、東京で荒漠たる萱原のただ中に立っていました。
そんなはず、あるわけがないと、どなたでも思われるでしょう。
でも、第2次オイルショックの不況の嵐のさなか、埋め立て工事が済んだ段階で
放置された広大な大井ふ頭には、搬入された土砂に葦が繁茂し、とてつもなく
大きな水たまりに、モロコやクチボソなどの魚が棲む、ありえない自然に満ちて
いました。現在の野鳥公園の前身でしょうか。
その中に立つと、見えるものは自分の全周を囲む葦と青い空、聞こえるものは
蕭々と葦を撫でて渡りゆく風の音。それ以外、いかなる物の姿も、物音もしない、
失われてしまったはずの武蔵野でした。
何度も足を運びましたが、そこでは人を見ていません。幸せな記憶です。
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