今回の「上質なことば」は、チェーホフの『桜の園』で、女主人公が発する一世一代の名せりふです。もちろん私の主観でしかないのですが、愚かな女主人公の人生観に共感を覚えてしまいます。
『あなたはなんでも重大な問題を勇敢に解決なさる。けれども言ってちょうだい、ねえ、それはあなたが若いから、あなたはひとつもあなたの問題をまだ苦しみぬいたことがないから、ではないでしょうか?あなたは勇敢に前を見ていらっしゃる。それも恐ろしいものはなんにも見ず期待していないからではないでしょうか、というのは、人生はまだあなたの若い目からは隠れているから。』
A.P.チェーホフ 作 湯浅芳子 訳 『桜の園』
いつか、どこかで見たか聞いたかしたことばに、『あいつはまだ人生という化け物に出会っていない』というものがありました。まさに、この女主人公のことば通りであります。
私もかつては『人生という化け物』に会わずに生きていた時期がありました。簡単に表現すれば、先々のことなど考えもせずに、比較的どうにでもなる目の前の生活を、何の不安感も持たずに自由気ままに生きていただけでした。
その日が明確に区切られた一日であったかどうか記憶にありませんが、あるとき「人生という化け物」の存在を、間近にするどく理解する時がありました。
『桜の園』で生きて来た主人公とその家族たちが、己の愚かさゆえに没落し、その美しい空間をかつての奴隷同然の人間に、競売で競り落されるという、話の筋としては平凡なものです。ただ、話の流れの相似形といえるものが、人生という化け物に出会ったことのある誰の心にも、存在すると考えています。
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