五卿と太宰府天満宮 その弐 ~高杉晋作は本当に来たのか~ | 萩往還を歩く

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幕末維新の志士たちが駆け抜けた歴史の道「萩往還」は城下町萩と瀬戸内の港三田尻とを結ぶ街道であります。さあ、今から、萩往還とその周辺を歩いてみましょう。きっと新たな発見があるはずですよ。

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今日は、五卿と太宰府天満宮 その弐であります。


こちらは、先日ご紹介しました、


五卿が滞在しました、太宰府天満宮、延寿王院であります。


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そしてこれは、その近くにあります案内板です。


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「三条実美ら尊王攘夷派の五卿がこの延寿王院に滞在し、

その間、西郷隆盛、高杉晋作、坂本龍馬ら、大勢の志士たちが

来居し、明治維新の策源地となった。」とあります。


ありゃ?高杉晋作?晋作はあの頃、太宰府に来たのかなあ?

僕はちょっと気になりました。


それで、五卿の動きと、晋作の動きを略年譜などで、

調べてみることにしました。


参考文献は、「高杉晋作/一坂太郎著(文春新書)」と、

「太宰府天満宮の謎/高野澄著(祥伝社 黄金文庫)」であります。


晋作が、俗論派打倒の兵を、功山寺で挙げた、

元治元年(1864)12月15日の時点では、

まだ五卿は長府 功山寺(山口県下関市)に滞在していました。


そして、翌年、慶応元年(1865)1月7日、

長州藩では、内戦が起きます。「大田・絵堂の戦い」であります。
この戦いは10日間続き、晋作率いる正義派が勝利しました。


一方、五卿が長府 功山寺を出たのは、その戦の最中、

1月14日のことです。


そして、五卿は、1月18日、赤間(福岡県)に移り、
藩主の別荘で約1ヶ月滞在しました。


2月の初めには、赤間を出て、箱崎に泊まり、

やがて太宰府天満宮の延寿王院に着いたのでした。


晋作の方は、3月20日、下関より長崎に赴き、

イギリスへ密航の企てをしていましたが、断念しています。


そして4月には、長府藩士から狙われていたため、

愛人、「うの」と共に四国へ亡命しました。←何と忙しいのう・・・。


それから下関に帰ったのは、閏5月下旬のことでした。


下関へ帰った晋作は、8月6日に、桜山招魂場で、一首を霊前に捧げます。


そして9月には、山口の「藩主そうせい公と世子」のもとに呼び出され、

意見書を提出しました。


それから晋作が、龍馬にピストルをあげたのは、

慶応元年から2年1月にかけて、まさに、この頃なのかなあ・・・。


翌年の慶応2年(1866)2月27日、

晋作は伊藤俊輔と共に薩摩行きを命じられます。
しかし、長崎まで行きましたが、
そこで、勝手に長州藩の名前で、

蒸気船オテントーを購入し、帰国します。←よいよ、わやするけえ~。


4月29日、晋作は、オテントーに乗って下関に帰ってきました。


6月7日。今度は「四境戦争」が始まります。

晋作は、大島口で幕府軍と戦います。←超多忙です。


そして、6月17日には、小倉口の戦いで、指揮をとります。


それからしばらくたった8月1日、小倉藩によって、小倉城に火が放たれ、

長州藩は、この城を占領しました。


しかし、晋作は、この頃から、病状が悪化、喀血。病床につきます。


9月。病床より、筑前藩士や、奇兵隊士に、姫島の牢にいます、

「野村望東尼」を救出するよう命じます。


10月には、下関の桜山にうのと一緒に移り住みました。


翌、慶応3年(1867)2月か3月ごろには、病室を下関新地の、

林家へ移しました。


そして慶応3年(1867)4月13日。

高杉晋作は永遠の眠りについたのでした。享年29でした。


以上、五卿と晋作の略年譜であります。



う~む。やはり晋作は、太宰府には来ていないのでは・・・。


どうなんでしょうかねえ。


皆さん、どなたかご存知の方がおられましたら、
どうぞご一報ください。宜しくお願いいたします!



それから、太宰府天満宮の宝物殿です。


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こういう催し物がありました。



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坂本龍馬も太宰府に来たのかなあ・・・?

う~む。どうなんだろう・・・。