時山直八は、長門国阿武郡山田村(萩市)の生まれ。
松下村塾で、吉田松陰に学んだ。
そこでは山縣有朋と親交があった。
松陰、時山を「なかなかの奇男子なり、愛すべし」と、こう評している。
ここでいう奇男子とは、他人とは違うという意味なのか。
それとも怪しく、不思議。つまり、奇怪な人物ということなのか。
いずれにせよ、愛すべき人物であったことは確かなのだろう。
時山は、馬関戦争、禁門の変、四境戦争に従軍し、
明治元年(1868)北越戦争に出征する。
彼は、奇兵隊参謀として、前線で指揮を取っていたが、
最後は、桑名藩雷神隊の狙撃を顔面に受けて即死する。
越後小千谷の朝日山は、激戦地のため、遺体は戦場に放置された。
奇兵隊士は、時山の首を切って持ち帰るのが精一杯であった。
その死を聞いた山縣は、ひどく悲しみ、号泣したという。
そして、ここ下関市吉田の東行庵には、
時山が北越戦争に出征する前に植えたといわれる一本の木がある。
その木がこれである。
「時山直八 手植えの樫」
異郷の地にて命果てた時山は、
この木を、二度と見ることはなかったのである。
時山直八。享年31。
彼もまた、幕末維新動乱の中を、
足早に駆けて行った男の中のひとりである。

