百頭天使見聞記

百頭天使見聞記

本、音楽、映画の感想

 映画公開当初(2001年)に映画館で見た。映画をそれほど多く見ない自分にとっての(なのでだいぶ偏ってはいる)オールタイムベスト10に入る映画だ。数か月前にふと、また映画が見たくなり、アマゾンプライムで見た。それから小説で読みたくなって読んでみた。

 このストーリーは実話をもとにしているので、映画だとどうしても詳細を省いたり事実を編集したりしているからだ。なるべく事実に近い状況を知りたかった。

 この話は、1993年のソマリアで起こった「モガディシュの戦闘」を題材にしている。アメリカ軍の特殊部隊がソマリアの独裁者アイディド将軍の側近を捕らえる、1時間もかからずに終わる予定の作戦行動が長引き、15時間もかかってしまったという話をもとにしている。

 ソマリアの武装勢力がRPG(携帯対戦車グレネードランチャー、ロケットランチャーのようなもののようです)という武器によってブラックホークというヘリコプターを2機も撃墜されたことが要因になっている。

上下巻2巻。出てくる人物がとにかく多く、メモしながら読みたくなる(電車などで移動しながら読んでいたので無理だったが)ほどだった。戦闘の描写が生々しく、軽々しく肉体が銃弾によって傷つけられていく様子が淡々と感情的な描写なく記述される。本当に戦争のただなかにいるような感覚だ。何が起きているのかわからない状態。

 一つ感じたのは、指揮系統の混乱の恐ろしさだ。最初は5つくらいのチームに分かれ、それぞれのリーダーが率いて行動するが、戦闘を行っている間に部隊はバラバラになり、メンバーが違うチームに合流したりして混乱していく。レンジャー部隊とデルタフォースというスキルや組織文化の違うチームのメンバーやリーダー同士が相手に持つネガティブな感情が作戦に影響を及ぼす様子や、現場の人間が指揮に対して感じるストレスなどが、メインテーマではないと思うが映画を通してずっと描かれている。

 戦争でなくても、大きなイベントの準備を大人数で行ったりするときに、同じようなことが起こることは自分も現場のいち人員として体験済みだ。指揮と現場の距離があり、現場で起きているイレギュラーな事態の情報が指揮に届かず、現場の状況が最適化されない。イベントであればただ準備が遅れるだけで済むが、戦争であればそれは一定の確率で無駄な死につながるだろう。

 印象に残った人物は、地上部隊のリーダー、マクナイト中佐だ。映画でも印象的な役割を果たしている。地上部隊というのは非常に危険な任務であり、死傷者が続出する可能性が高い(実際にそうなる)状況下で作戦行動を行わないといけない。そんな中で指揮に対して怒りながらも誇りとぎりぎりの冷静さをもって作戦を最後まで遂行する。

(ハヤカワ文庫 2002年 マーク・ボウデン著)

 

 

 

徳田秋声「町の踊り場」を読んだ。ごく短い掌編だ。1933年発表。戦前だ。東京で暮らしていた作家が姉の葬儀で故郷のおそらく金沢(小説の中では伏せられているが)に帰っての数日の話である。徳田は自然主義の作家。自然主義の作品は実はあまり読んでいない。新聞夕刊の記事で紹介されており、興味をもって読んでみた。

タイトルにもあるように、姉の葬儀が終わった後にダンスホールに踊りに行く話だ。帰郷後葬儀の前にも鮎を食べに料理屋に行っている。正直、風情はなく、自然とは恐ろしいものを見せるものだという気になった。そこが魅力なのだろう。最近はむしろ喚起する感情のテンプレート化、それと連動してストーリーのテンプレート化が進んでいると思うので、新鮮である。確かに葬儀に感情移入できないときはある。それがたとえ肉親だろうと、どこか距離感を感じることもあるだろう。それを意図的でないようにあらわしているところがむしろ圧巻である。

ものすごく単純化してしまうと、東海岸からやってきた主人公が西部で起きた2人の地主のトラブルを解決する、という話。非常にモダンな解決策を取る。西部劇らしくないのかなとも思う。しかし、極めて正しい。完璧である。公正さの塊である主人公グレゴリー・ペック扮するジム・マッケイの行動。ただそこに、ほんの少し女性への愛情ゆえの揺らぎというか、感情的な行動、あるいは人間的?な行動があり、それがまた清涼剤のように見ている側をほっとさせる。ちなみにテーマ曲も有名。聴けばすぐわかります。(1958年公開 米 監督:ウイリアム・ワイラー)

トリュフォーの映画。1980年公開、なんでもトリュフォーの作品で最も成功した作品とか(セザール賞主要十部門受賞 ちなみにセザール賞はアメリカのアカデミー賞に相当するとのこと。1975年に創立)。

ところどころユーモアが挟まっているところがトリュフォーらしさなのだろうか。(まだそれほどトリュフォー作品を見ていないのでわからなくて)

例えば、劇場の入口横の花壇で子どもが何かを栽培している。劇場の職員レイモンが花なのか、野菜なのか、と聞いてみると、たばこ(もしくは乾燥させて吸う別のもの?)だと無邪気に答える。レイモンの台詞「警察につかまるぞ・・・」。なんとも面白い。ショートコントのようで思わず笑ってしまう。

エンディングも(ネタバレになるので明言を避けるが)かなりユーモアがある。その直前でドイツ軍の影響が強まり、ゲシュタポが出てくる辺りで映画の緊張感はマックスに。しかしその後、ぱっと語り口調が変わってまるで滝壺に落ちる直前でふわっと浮かび上がるような感覚で明るくなる。独特な感覚だな、と感じ入った。

あと、カトリーヌ・ドヌーブが実に綺麗だ。見惚れてしまう。女優役という不思議な入れ子構造のような役どころだが、その程よい能面のような演技で見事に達成している。それを見るだけでも価値があるかも。

詩人の平出隆氏の著書。自分は小田原に棲みついていた作家、川崎長太郎を最近気に入っており、関連書籍を探していたところ、この本を見つけた。

氏は編集者として晩年の川崎の担当をしていたらしい。脳梗塞をしてから右手で書かずに左手で書くようになったという川崎の、左で書く様子について描写してあったり、また川崎は校正刷りを見ないらしく、原稿用紙にたくさん迷路の様に推敲の形跡があるということで、実際の原稿の写真なども載っている。川崎は散歩が好きで、散歩というよりは、遊歩、もっと出鱈目に多く歩く、というものだったらしい。その行為には、大きな運命に翻弄されるため、身を預けるために激しく地図上を動くような、ある種の無謀さが内蔵されている印象を受けた。



本自体は、正岡子規、川崎長太郎、ワルター・ベンヤミンについて書かれている。


子規は、長く床に臥して35歳にして結核と脊椎カリエスで亡くなった。最晩年に、弟子がこんな様子を書いているのがあり、印象に残ったので引用する。死に瀕すると、明晰になり、visionaryというか、「見える」という状態になるのだろうか。



(碧梧桐の文章)
子規が死に面した晩年、或る日枕頭に侍していた私を顧みて

 病気の重ってくるほど、頭はいよいよ明敏になる、さういふと大言するやうであるが、哲学でも文学でも今までわからなかつた問題が驚くほどはつきりして来た、自分でも恐ろしい程だ、議論でも創作でも、思ふやうに出来る気がする、もうお前らにも負けてはをらんよ―破顔微笑が、かなしいことには、もうそれを組み立てる元気がない、考へを形に表すことが出来ない、強ひて形に表はさうとすると、矢張惰性に引きずられたものになつてしまふ、これ程明らかにわかつているものが・・・・・・それでもう死んで往かねばならない、宝の持ち腐れといふのは本統にことことだ。

と言って、私には見えないやうに涙を拭いたことがあつた。私は電気に打たれたやうに、身体の居すくんでしまふのをどうすることも出来なかつた。

(P72)



少し冗談めかしているようにも見えるが、真に迫った告白である。


(岩波書店 2007年 著者:平出 隆)















記録によれば、一昨年読んだ本。以下参考になったところを引用。


文脈が分らなくて、よく分からん、という感想かもしれませんが。


「感動」という言葉がうそ臭くなった、というのは自分も感じていた。自分も使ってしまうが、たとえば「悲惨」という言葉があるが、これは相当なひどい状態について言う言葉なのに、冗談として使っているうちに、その重みという価値がほとんどゼロに等しくなった。感動、というのもそうだ。もとの意味で「感動」していないのに、とりあえず感動、と言ってしまう。言葉は力を持つので、感動した、というと、感動するのかもしれないが、その引力も大分減じたのではないか。今の人類はクイックに反応的に言葉を発しようとしすぎるのだろうか。




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(江戸時代の話)荒くれの駕籠かきですら、子供が道であそんでいたらそっと避けていって、決して子供を蹴散らしていくようなことはしなかったといいます。(P58)

カウンセリングをしているとよく分かるんですが、時として女性は言うことと、したいことが逆だったりする。逆なんですけど、女性のすごさは、「結局はこうしたいんでしょう?」と言うと笑い出しちゃう、「まさか!」って。ましては彼氏やダンナにそんなこと言われたら、「そんなことないです」とかたくなになるか怒り出す。男のほうが言葉と、したいことが裏腹になっていることが少ないんですけど、男と女で、ここがずれているときは調整するのが難しいでしょうね。女性は要するに心の「リボン結び」が多いんです。リボン結びがいっぱいある。男はぎゅっと結ばれたこま結びがひとつかふたつあるだけ。女の人は、あちこちに結び目があるのですが、リボン結びだからほどきやすい。だからこちらとしては、「はは、こんなところにもあった。はは、ここにもあった」とほどいてやればいい。そういうと女性は「そうかもしれません」と、すぐに小さい白旗を揚げる。それがピンクの白旗だったりして笑(P47)。

甲野

そういえば最近スポーツを見た後に「感動をありがとう」なんて、昔はよほど感動しなくては出てこない言葉を、まるで外交辞令のように簡単に言うようになりましたね。もう手紙の最初に書く「拝啓」と同じようなひとつの定型になっています。確かに、あらゆる言葉がすごく軽く使われ始めているな、という印象がありますね。

名越

「日本文化」と同じように、「言葉」についてもその中身はもうなくなってしまっているんです。でも一応言葉の形としては残っている。

「やさしさ」とかもう勘弁してくれ、と思いますね。だいたいキーワードになっている言葉のほとんどは内容を伴っていない。「言葉」というものを少し腰を落ち着けて眺めてみるだけで、現代の悲しさといいますか、虚しさが立ち上がってくるように思います。(P62)

名越

あるいは具体的な事例が書かれた投書などについて、「どこがいけないのかを教えてください」という聞き方をされます。こういう質問のされ方ですと、モテるためにどうしたらいいかをわかっていない僕でも答えられるんです。具体的な事例があれば、そこからその人がわざわざモテないようにしている部分を指摘すればいい。それは僕にもできるんですよ。

(P80)

甲野

これは、「どういう生活が幸せか」といった話にも適用できますね。ある人がある時点で「お金をたくさん持っているのが幸せな人生だ」と考えたとしても、それはあるレベルでの自分が予測したことに過ぎません。自分のレベルが上がれば違うことを考えるでしょう。よく見過ごされてしまうことですが、レベルが上がる前には、レベルが上がった後に自分が何を考えるか想像もできないんですね。(P81)

甲野

「何気なくすることの力」に話を戻すと、身体の使い方から考えてみて二、三年前から、「何気ない動きに宿る高度な身体の使い方」ということについて、あらためて考えさせられています。たとえば「何時かな」と思って腕時計を見ているときに、横からだれかが呼んだような気がして、「えっ」と振り返ったときのこの腕の形は実は大変な力を持っています。振り返るときに、腕を動かさずに上半身だけで振り返ると、腕の上部が少しきつくなります。自然に振り向くと、上半身と一緒に手も外に向いていくような形でついてきます。そのときの手の形は、意識的に力を入れてばっと払うよりも強いちからを持っているんです。「腕を使って払おう」と決めてしまうと、いくら踏ん張ったり、腕に力を入れても、結局身体の使われる部分が一部になってしまいます。しかし何気なく動かしたときには、身体全体を使って腕が払う形になるんです。(P85)

甲野

夢中になっていると思いがけないことができてしまうという例ですね。「できない」という思考に囚われなければ、常識的にありえないことでもできる。(P87)

名越

変な言い方ですけど、「認識するな」ということですね。

甲野

そうです。無住心剣術の伝書にありますが、「高山、大河も無いと思えば、無いと同じ」ということですね。

(P87)

甲野

(自分の教える新しい体の動きを取り入れる人が増えないことに対して)つまり、そのくらい自分で考える、自分で価値観を創設するということがなされていない。養老先生風の表現で言えば、共同体というか、所属しているところの価値観に縛られているんだと思います。それも猛烈にきつく縛られている。(P190)

名越

今はやっぱり「なんだか分からない」というのは不安だ、「分からない余地」は気持ち悪い、という人ばかりなんですよね。何でもすぐに分かりたがろうとする。これは、分からないことに対する「信頼」がまったくないからではないか、と思うんです。

(中略)因と果というものが、それこそ甲野先生が言うように符合的に起こるような一対一対応ではなく、例のバックミンスター・フラーの張力統合体テンセグリティの球みたいに球面をなしているような、一部を動かせば、全部が変化し、スパイラルをなしているように見えてくる感覚だと思うんです。それを昔の人は普通に農作業をする中で持っていたんじゃないかと思うんです。(P194)

(2008年 甲野義紀、名越康文 PHP研究所)

記録によれば今年の3月に読んだ本。


引用を少し。


文章を書くという行為は、相当にいやらしいものであると思う。少なくともわたしの場合、文章を書くという行為の中には、自己顕示欲やら自己陶酔やら自己満足やら、とにかく「己れ」という存在を強く強く意識することが内蔵されている。考えてみれば、自分の文章を他人に読んでもらうというのは、自分の思考や意識を積極的に表にさらけ出すということなのだから、もしかしたらこれは露出狂の変種かもしれない。

(P152)


なるほどね。吉本隆明はうまくしゃべれない自分というのがいて、でも書くとうまく自分の思っていることが出せる、ということを小さい頃に体験した、というようなことを書いていた。何らかの形でさらけだしたいということなのか。自分も書くのが好きであるが、これを読むとちょっと考えてしまう。


(新潮文庫 平成5年 )














哲学者中島氏のエッセイ集。いくつか気になったところを書き留める。



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カントによれば、われわれはそれに反すると罰せられるから道徳法則に従うのではない。ただ従うべきだと思うから従うのである。


P61

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倫理というのはなんかそういうところがあるなというのはうすうす感じていたし、友人もそういっていたし、ヴィトゲンシュタインもそういっていた(倫理は先験的である)。



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・・・エノンセ(言表)とエノンシアシオン(言表作用)との差異が分かったときである。それはラカン特有の自我論でもある。私は言葉(大文字の他者)を習得することによって、存在から意味の世界に移行し、そのことによってナマの私から決別し、抹消された私(Sに斜線※)を引き受けざるをえない。私は言葉を習得することによって、私の欲望を他人の欲望として語る(エノンセ)ことしかできなくなり、しかもまさにそのことによって私固有の欲望を語り続けようとする(エノンシアシオン)のである。エノンセの主体とエノンシアシオンの主体のずれを引き受けること、それが(言葉を用いて)私が語るということなのだ。ひらたく言えば、「私は悲しい」と語ることによって、私はそこに生じている固有の感情ではない一般的な何かを語ってしまっているのだ。その場合の「私」とはすでに抹消された私にすぎない。

P62

(新潮社 初版 2009年 著者 中島義道)

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このくだりは分り易い。なるほどね。語ることによって、自分から離れてしまうのか。それが何を意味するのか未だ分からないが。ラカンは恥ずかしながら読んだことがないので、これを糸口に今度読んでみよう。




タイトルの魅力に惹かれて買った本。経済をまなんでいないので、参考になった。


引用になるが、エコノミストの岡田靖氏の発言より。


岡田

表向きなんとかいまの世の中、回っていますけれど、もうぎりぎりまであっちこっちが壊れはじめています。壊れ始めている原因ははっきりしていて、成長の頭打ちが十何年も続いているということです。そういうと、株価暴落のはじまった90年頃よりはGDPも増えているのだから、あの頃よりひどくなる理由はないだろうと思う人がいるかもしれない。ところが、経済は低迷しているけれども技術は進歩しているわけです。コンピュータだとか、いろんな新しいテクノロジーが出てくると、以前はそれほど多くの分け前をもらえなかったのに、いまはものすごくいっぱいもらって当たり前という人が一方で出てくるわけです。

・・・技術進歩の結果として同じ価値を生み出す生産をより少ない人で済ますことができるようになりました。この結果、労働に対する需要が減っていきます。GDPの増え方を見ると、先進国では、長期的に年2%から2.5%ぐらい、一人当たり生産額は増え続けています。どうも、人間の知識の蓄積していくスピードというのがだいたいそんなもんらしいんですね。



成長をやめると、2%ずつ人がいらなくなる。合っているか分からないが、分かり易い説明。




(光文社新書 2009年 芹沢一也、荻上チキ 著)

 ちょうど鷺沢萠(さぎさわめぐむ)のエッセイを文庫で読んでいた今日(3/18)という日に、ヌジャベスという日本人DJの訃報を知った。深夜交通事故に巻き込まれたようだ。

 こんなときになんだが、ヌジャベスというのは「せば じゅん」さんという名前のローマ字を逆にしたものだそうだ。

 僕はてっきりプロジェクトのような組織体の名前だと思っていた。よくできた名前であり、アフリカの内陸の国チャドの都市「ンジャメナ」や、昔のbrand new heaviesのボーカル、ンデア・ダベンポートを彷彿とさせる。

 彼に関しては自分は参列者の一番うしろに何気なく並んでいる位の関係性で、具体的にはCDを1枚、試聴して、気に入って買っただけの関係だ。

クラムボンの楽曲をアレンジした「imaginary folklore」という曲が好きだった。ちなみにこれも関係ないが、このときに「好きだった」と過去形にしないと据わりが悪いのは何故だろう。実際、今でも好きなのに。


 何かが変わってゆくような

 そんな気がした あと少しで

 何事もなく 消えていく

 6月6号 あと少しで


 鷺沢萠の本は、この前ブックオフで何気なく買ったもの。彼女も突然死んでしまった人だ。その理由も兆候も自分にはぜんぜん分からなかった。もっとも大してウォッチしているわけでもなく、2,3冊読んでいいなと思っていた程度の読者にそんなことが分かるわけがないのだが。とにかく、エッセイを読んでいると、特にそんな風には思えないのだ。なんでこの先にこういう結末が待っているのか。

 例えば人生がグラフであらわせるとすると、最後の2004年4月11日の前は、彼女のグラフはどんなスコアだったのか。その前の日は、その前の月は、その前の年は、・・・初期値は?不届きか、そんなことを考えるのは。


 人はほんとうに簡単に消えてしまうものだ。


 そういえばこの前は山川方夫のことを文章に書いていた。彼もまた交通事故で30代で亡くなった。