記録によれば、一昨年読んだ本。以下参考になったところを引用。
文脈が分らなくて、よく分からん、という感想かもしれませんが。
「感動」という言葉がうそ臭くなった、というのは自分も感じていた。自分も使ってしまうが、たとえば「悲惨」という言葉があるが、これは相当なひどい状態について言う言葉なのに、冗談として使っているうちに、その重みという価値がほとんどゼロに等しくなった。感動、というのもそうだ。もとの意味で「感動」していないのに、とりあえず感動、と言ってしまう。言葉は力を持つので、感動した、というと、感動するのかもしれないが、その引力も大分減じたのではないか。今の人類はクイックに反応的に言葉を発しようとしすぎるのだろうか。
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(江戸時代の話)荒くれの駕籠かきですら、子供が道であそんでいたらそっと避けていって、決して子供を蹴散らしていくようなことはしなかったといいます。(P58)
カウンセリングをしているとよく分かるんですが、時として女性は言うことと、したいことが逆だったりする。逆なんですけど、女性のすごさは、「結局はこうしたいんでしょう?」と言うと笑い出しちゃう、「まさか!」って。ましては彼氏やダンナにそんなこと言われたら、「そんなことないです」とかたくなになるか怒り出す。男のほうが言葉と、したいことが裏腹になっていることが少ないんですけど、男と女で、ここがずれているときは調整するのが難しいでしょうね。女性は要するに心の「リボン結び」が多いんです。リボン結びがいっぱいある。男はぎゅっと結ばれたこま結びがひとつかふたつあるだけ。女の人は、あちこちに結び目があるのですが、リボン結びだからほどきやすい。だからこちらとしては、「はは、こんなところにもあった。はは、ここにもあった」とほどいてやればいい。そういうと女性は「そうかもしれません」と、すぐに小さい白旗を揚げる。それがピンクの白旗だったりして笑(P47)。
甲野
そういえば最近スポーツを見た後に「感動をありがとう」なんて、昔はよほど感動しなくては出てこない言葉を、まるで外交辞令のように簡単に言うようになりましたね。もう手紙の最初に書く「拝啓」と同じようなひとつの定型になっています。確かに、あらゆる言葉がすごく軽く使われ始めているな、という印象がありますね。
名越
「日本文化」と同じように、「言葉」についてもその中身はもうなくなってしまっているんです。でも一応言葉の形としては残っている。
「やさしさ」とかもう勘弁してくれ、と思いますね。だいたいキーワードになっている言葉のほとんどは内容を伴っていない。「言葉」というものを少し腰を落ち着けて眺めてみるだけで、現代の悲しさといいますか、虚しさが立ち上がってくるように思います。(P62)
名越
あるいは具体的な事例が書かれた投書などについて、「どこがいけないのかを教えてください」という聞き方をされます。こういう質問のされ方ですと、モテるためにどうしたらいいかをわかっていない僕でも答えられるんです。具体的な事例があれば、そこからその人がわざわざモテないようにしている部分を指摘すればいい。それは僕にもできるんですよ。
(P80)
甲野
これは、「どういう生活が幸せか」といった話にも適用できますね。ある人がある時点で「お金をたくさん持っているのが幸せな人生だ」と考えたとしても、それはあるレベルでの自分が予測したことに過ぎません。自分のレベルが上がれば違うことを考えるでしょう。よく見過ごされてしまうことですが、レベルが上がる前には、レベルが上がった後に自分が何を考えるか想像もできないんですね。(P81)
甲野
「何気なくすることの力」に話を戻すと、身体の使い方から考えてみて二、三年前から、「何気ない動きに宿る高度な身体の使い方」ということについて、あらためて考えさせられています。たとえば「何時かな」と思って腕時計を見ているときに、横からだれかが呼んだような気がして、「えっ」と振り返ったときのこの腕の形は実は大変な力を持っています。振り返るときに、腕を動かさずに上半身だけで振り返ると、腕の上部が少しきつくなります。自然に振り向くと、上半身と一緒に手も外に向いていくような形でついてきます。そのときの手の形は、意識的に力を入れてばっと払うよりも強いちからを持っているんです。「腕を使って払おう」と決めてしまうと、いくら踏ん張ったり、腕に力を入れても、結局身体の使われる部分が一部になってしまいます。しかし何気なく動かしたときには、身体全体を使って腕が払う形になるんです。(P85)
甲野
夢中になっていると思いがけないことができてしまうという例ですね。「できない」という思考に囚われなければ、常識的にありえないことでもできる。(P87)
名越
変な言い方ですけど、「認識するな」ということですね。
甲野
そうです。無住心剣術の伝書にありますが、「高山、大河も無いと思えば、無いと同じ」ということですね。
(P87)
甲野
(自分の教える新しい体の動きを取り入れる人が増えないことに対して)つまり、そのくらい自分で考える、自分で価値観を創設するということがなされていない。養老先生風の表現で言えば、共同体というか、所属しているところの価値観に縛られているんだと思います。それも猛烈にきつく縛られている。(P190)
名越
今はやっぱり「なんだか分からない」というのは不安だ、「分からない余地」は気持ち悪い、という人ばかりなんですよね。何でもすぐに分かりたがろうとする。これは、分からないことに対する「信頼」がまったくないからではないか、と思うんです。
(中略)因と果というものが、それこそ甲野先生が言うように符合的に起こるような一対一対応ではなく、例のバックミンスター・フラーの張力統合体テンセグリティの球みたいに球面をなしているような、一部を動かせば、全部が変化し、スパイラルをなしているように見えてくる感覚だと思うんです。それを昔の人は普通に農作業をする中で持っていたんじゃないかと思うんです。(P194)
(2008年 甲野義紀、名越康文 PHP研究所)