碓氷社の資料

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碓氷社の清掃ボランティアに行った時に、参加されていた陶芸家の岡本正規さんが「自宅に碓氷社の資料があるよ」とお声掛けくださいました。後日、お言葉に甘えて伺いました。

 

奥さまのご実家の萩原家は、碓氷社に所属していた組合の1つである『鷺宮西組』のまとめ役だったのだそうです。その資料がご自宅に保管されていました。

 

 

 

 

 

 

前回のブログにも書きましたが、碓氷社は明治11年にこの地(碓氷郡=群馬県安中市)の養蚕農家が出資して始めた製糸合同販売団体でした。所属していた組数は、昭和2年発行の「碓氷社五十年史(以下、五十年史)」によると、多い時では180除数が加入していたとあります。組の加入も最初は地元の碓氷郡内でしたが、やがて明治25年頃からは県内外へと増して行きました。県外だと、秋田・福島・茨城・埼玉・千葉・長野・東京・静岡・鳥取にもあったようです。

 

見せていただいた帳面には「鷺宮西組」や「鷺西組」の2種類が記されていました。五十年史によると、明治27年に碓氷郡東横野村大字鷺宮で設立した組で、明治35年に鷺宮西組から鷺西組に改めたとあります。大正元年までの18年間所属していました。

 

 

 

 

 

 

資料の中に生糸受入台帳がありました。

生糸を巻いた小枠ごとに番号が付いており、細かに生糸検査をしていたことが伺えます。左ページの最初の行に書かれた、工女の萩原クマさんは、この日に繰糸した生糸の出来が良かったようです。等級が「一」となっています。「テドロ」というのは生糸の太さのことで、糸の長さと量から表わすようです。現在はデニールという単位を使います。この当時もデニールの単位は使っていました。テドロって、どこの国の単語でしょう。

 

 

 

 

 

碓氷社の清掃後記

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7月29日に、恒例の碓氷社清掃ボランティアに参加してきました。

 

碓氷社というのは、明治11年にこの地の養蚕農家が出資して始めた製糸合同販売団体でした。この周辺は、昔から副業として蚕飼いや座繰りをする者があり、その生糸を仲買する業者もありました。創業当初は、当館も行っている手回しの座繰器で生糸を製造し輸出していたといいます。なので、わたしとしてはとても思い入れのある場所です。

 

わたしがこの催しに参加した切っ掛けはもう一つあります。当館が今の場所に移転してきた時に、主催の磯部南京玉すだれ愛好会のお二人に声を掛けていただいたことでした。その後、小学校に福袋をプレゼントする、おこさまネットワークの活動などもあり、地域の方と交流する機会をたくさんいただきました。お二人にはとても感謝しています。

 

清掃の様子は、磯部南京玉すだれ愛好会さんがブログにアップされたのでリンクします。https://blog.goo.ne.jp/isobenoisobe/e/211839fe83b788e44e7351bc580e557f

 

 

 

 

 

 

それから、今回の催しにはton-caraのワークショップに参加いただいているIさんがお手伝いに来て下さり、清掃後の見学会にも参加されました。ご参加ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

そして、主催のHさんからは碓氷社の情報をいただきました。

碓氷社が昭和2年に発刊した『碓氷社五十年史』の復刻版が昨年出版たされたそうです。この社史は、国立国会図書館のデジタルアーカイブでも読むことが出来ますが、手に取ってページをめくりたい方には朗報ですね。

 

調べてみると、2017年12月から地域文化復刊PODというサービスができたようです。一般財団法人群馬地域文化振興会を発行者、朝日印刷株式会社を製造・販売者として、群馬県の先人が遺した貴重かつ希少な文献等を、希望者の需要に応じて復刊頒布してくれるのだとか。すごい!!現在復刊している中には、田島弥平の『養蚕新論』もありました。ご興味ある方はぜひサイトを覗いてください。● ぐんまの本棚『地域文化復刊POD』

 

 

 

 

 

 

ただし、これらは出版当時の復刻であることをお忘れなく。養蚕新論の翻訳付きがほしい方には農文協の明治農書シリーズをオススメします。碓氷社五十年史についても補足。社史ですので実際の製糸方法についての記述はほぼありません。上州座繰器の歴史を勉強したい方には、松浦利隆著『在来技術改良の支えた近代化』がオススメです。こちらは現在でも購入可能です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

● 咲前神社『夏越の大祓』の関連イベント ●

 

七夕 2018年7月31日(火)七夕

花火 さきさき夏市 ・・・ 11時 〜(随時、たぶん15時頃まで) 昨年の様子

花火 大祓の神事 ・・・ 17時 〜  詳細

花火 雅楽の夕べ ・・・  17時半 〜 巫女舞、18時 〜 雅楽・管絃と舞楽

 

風鈴 2018年8月1日(水)〜2日(木) 風鈴

桜 鎮守の森の草木染め ・・・ 事前予約が必要です。境内の桜の葉を煮出し、椿で灰汁を作り染めます。詳細

予約先:ton-cara(トンカラ)まで。tel : 027-368-2370 e-mail : mail@ton-cara.com

 

車 アクセス

場所:咲前神社(群馬県安中市鷺宮3308)

自家用車でお越しの方:神社隣の専用駐車場をご利用ください。

公共交通機関:「高崎駅」乗り換え、信越線「安中駅」下車。タクシーで10分くらい。

 

 

 

 

 

カキ氷『さきさき夏市』は、11時頃から始まります。オシャレで美味しい食べ物のお店や、裂き織り体験やマッサージもお手ごろ価格で楽しめます! 七夕『雅楽の夕べ』は17時半から始まります。

 

 

 

 

 

 

今年も碓氷社(うすいしゃ)の清掃と建物の公開をいたします!今週末です!!

この碓氷社は、明治時代に養蚕家ら農家が出資し創設した民営の製糸工場でした。かつては、手回しの座繰器で製糸した生糸を海外に輸出しました。現在は、この本社事務所のみ建物が残っています。「ぐんま絹遺産」に登録されており、通常の見学は外観のみです。7月は碓氷社社長であった萩原鐐太郎さんの命日です。それにちなみ、毎年この時期に有志で建物の清掃をしています。

 

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『碓氷社の清掃』みんなできれいにしましょ!

 

日時:2018年 7月29日(日) 9時 〜 12時

場所:旧碓氷社本社事務所(群馬県安中市原市・セキチュー様の隣)

内容:● 清掃活動 9時〜

   ● 旧碓氷社本社事務所の建物内公開 11時〜12時

主催:磯部南京玉すだれ愛好会 / おこさまネットワーク

問合せ:清掃にご参加くださる方は、7月28日 (土)の正午までに蚕絲館までメールをください。(sanshikan@me.com)

 

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9時から清掃を開始します。清掃終了後の11時〜12時まで建物内を公開いたします。公開中は、安中市学習の森の職員さんが解説を行ってくださる予定です(解説の有無はあくまで予定です。ゆるい告知でごめんなさい)。通常は建物の外観しか見学できませんので、年に1度のこの機会にぜひお越しください。

 

清掃にご参加いただける方は、7/28(土)正午までに当館へメール下さい。後ほど、返信いたします。

建物内の見学については、事前予約は必要ありません。


以下は、過去の清掃風景です。お待ちしております。

 

 

 

 

 

 

 

告知:7月、8月の座繰りワークショップ開催予定日(7/15時点)

● 7/19(木)・・・募集中

● 7/20(金)・・・募集中

● 8/4(土)・・・開催決定です。あと2席募集中です。

● 8/5(日)・・・募集中

 

お問い合わせ先:くらし手仕事の店 ton-cara

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先月の座繰りワークショップ(以下、WS)のことを。

春の養蚕が終わった6月中旬に、3日間限定で生繭による座繰りワークショップを開催しました。今回の春繭は、群馬県のオリジナル蚕品種「新小石丸」でした。この時の様子は、お店のブログにもアップされていますので、ご覧ください。

 

 

 

 

 

 

生繭を糸にすることを、ちまたでは「生繰(なまく)り」といいます。生繭というのは、中の蛹が生きている状態の繭のことです。生繰りが出来るのは、蚕が繭の中で変態して蛹になった頃から成蛾になって羽化するまでの短い期間です。繭がフレッシュなので、繰られる生糸は艶やかで美しいです。このスペシャルな座繰りは、春蚕(6月中旬収穫)と晩秋蚕(10月上旬収穫)に行います。その時期の養蚕WSの参加者さま優先ですが、空席がある場合は初めての方でもご参加いただけます。

 

通常の座繰りWSでは、冷凍保管した繭で座繰りをします。乾燥繭のように熱処理した繭ではないので、こちらも生繭に近い感触が得られます。

 

 

 

 

 

こちらは、生繰りに参加いただいたTさんが実習時間も含め1日で生繰りした生糸です。

ton-caraでは、座繰りの部屋を開放しています。座繰りWSに1度参加いただきますと、それ以降ご利用可能です。お店にご予約いただければ、千円/時間(お茶サービス付き)で自習いただけます。お1人だけでも利用できます。滞在もできますので、製作に没頭できますよ。→Use & Stay ご利用お待ちしております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前回の六工社跡地に沿った神田川を上ったところにお寺が並びで2社ありました。

その一方の清水寺に伺ったとき、護摩堂の賽銭箱の後ろから、睨みをきかせたニャンコが。。。

 

 

 

 

 

 

ホントは気持ち良く寝ていたところを起こしてしまったようです。

 

 

 

 

 

 

お堂からのっそり出てきて、地べたにごろん。

ハイ、撫でて〜のポーズ。名前は、にゃにゃ太郎。元は野良だとか。毛並みはやわらかで気持ち良かったけど、夏は暑そう。顔が大きくて、よく見ると傷跡がいくつもありました。この辺りのボスかもしれません。

 

 

 

 

 

 

住職さんが出てきて下さいました。六工社に関連する建物が、跡地以外にも残っていないか質問してみましたが、無いようにおっしゃっていました。住職さん、にゃにゃ太郎、短い時間でしたがお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

さて、ここは六工社跡地に向かう途中で立ち寄ったお寺です。養蚕に関係しているそうなので、お参りしました。

 

 

 

 

 

仁王様の八脚門。

 

 

 

 

 

訪れたのは夕方近くということもあってか、落ちる影の深さに階段を上る足取りが、少し心細くなりました。

 

 

 

 

 

 

階段を上りきると、開けた平地に出ました。懸崖造りの建物が目に飛び込んできます。これは迫力があります。

 

ここは、虫歌山桑台院(むしうたやまそうだいいん)というお寺です。このお寺には、蚕の昔話があります。国立国会図書館で調べると、大正時代の『信濃の伝説』の中に『蟲歌観音』が掲載されていましたのでご紹介します。

 

「蟲歌観音

 松代在の平林村の百姓がある時、別所の観音様から布引き観音様などを巡礼して、地蔵峠まで帰ってきたときに千万人が一時に泣くような声がする、ハテと耳を澄まして聞いていると、どうも自分の家のある方のように思われる。

 今までに聞いた事のない不思議な泣き声であるが何であろうかと、急いで帰ってくる、自分の家に近づくにつれてその声が益々高くなって来て、いよいよ自分の家の裏手まで来ると、その声は確かに我が家であるのが知れて、駆け込んで行く。

 不思議な泣き声について妻に尋ねてみると、蚕の繭を日に乾かして置くと蚕が干し殺されるのを悲しんで泣き出したので家の中へ取り入れたが、どうしてもその泣きが止まないので困っていると云った。二人は多いに供養してやったが、まだ気が済まないので西條村の堂平から千手観音様をお迎え申して、お堂を建て、勧請して置いた。それを虫歌観音と云って信州三十三番の札所になっている。その後には繭を干しても泣き声を出す事は無いようになったと。」

 

 

 

 

 

 

 

 

お寺の名前を風流だなと思いましたが、この昔話を知ってしまうと、蚕を飼っている私としては身の毛がよだちます。「蛹が悲しくて泣く」ところは他では聞いた事がありません。とてもユニークであり、恐ろしいです。

 

恐ろしく感じる理由は、私自身が蚕の命を取っているからに他なりません。蚕は声を出して泣くことはありませんが、生繭を煮るとき、繭を保存するために殺蛹するとき、蚕の命を考えないことはありません。どんな小さなものでも、その命を奪うことには恐れが伴います。私の個人的な考えですが、どれだけ美しい糸に仕上げたとしても、そのために殺すことは私のエゴだと思っています。その糸は美しく、糸をつくる技術も奥が深く止めようとは思えません。命を取ることへの恐れと罪悪感を抱きながらも利己主義であるという矛盾は、糸の技術を学び始めたときから一生決着しない心情です。


蚕の供養といえば、日本では供養碑などを全国各地で見ることが出来ます。これまで考えたことはありませんでしたが、他国には蚕の供養碑は存在するのでしょうか? 宗教上、不殺生だから蚕を飼わないとか、また羽化後の出殻繭を紡績する「ahimsa silk」があります。これらは、私は殺生をしないということが明確でわかりやすいです。殺生した上で、その命を恐れたり、感謝したり、冥福を祈るという感じ方は複雑です。アイヌ民族や、インディアンは、そうした考えがあったように記憶しています。まったく詳しくないので、これ以上は内容を広げられませんが、その在り方には関心があります。

 

 

 

 

 

 

「虫歌の観音さま」の解説板です。養蚕家の人たちがこぞってお参りに訪れ、養蚕守護の観音堂として栄えたとあります。ご本尊の千手観世音菩薩様は、暗くて見えませんでした。

 

 

 

 

 

 

お堂の内外を見て回りました。養蚕に関する額やお札などが飾られていたら見たいなと思ったのですが、そういうものは1つも発見できませんでした。

 

 

 

 

 

 

『富岡日記』には、横田家は養蚕をしていたと書いてありました。和田英らも豊作を祈願しに、こちらに参拝したかもしれないなと思いました。横田家からお寺までは徒歩30分くらいです。ちなみに、旧横田家から六工社跡地までは、徒歩25分くらいです。六工社へ行く道とこのお寺とは通りが途中で分れるのですが、英が通った道を同じように歩いてみるのも楽しそうです。

 

 

 

 

 

 

最後に、とても暑い日だったのでかき氷を食べました。真田宝物館の近くにある竹風堂さんの夏季限定「栗みぞれ」です。自家仕込みの栗蜜がかかった氷の上に栗あんが贅沢にのっています。最高に美味しかったです。オススメです。

 

 

 

 

 

 

先月、長野県の松代方面へ遊びに行きました。

松代といえば、わたしにとっては『富岡日記』を書いた和田英、そして六工社です。

和田英は、松代藩士横田数馬の次女で、官営富岡製糸場に伝習工女として入場した女性です。富岡日記は、英が晩年に、入場を決意したところから富岡製糸場での日々、退場後に郷里にできた六工社でのことを綴ったものです。

 

今回のドライブは、長野県立歴史博物館〜旧横田家住宅〜六工社跡地を巡りました。当館から歴史博物館までは車で片道2時間くらいです。実際は2回にわたり訪れた場所なのですが、ここに書いたコースのみなら1日で巡れますので、ご参考まで。

 

さて、長野市松代のお隣、千曲市にある長野県立歴史博物館には、常設展に六工社の資料があります。中でも、この六工社の器械の復元と錦絵を拝観するのが楽しみでした。

 

 

 

 

 

 

その錦絵『信濃國埴科郡西絛邑六工製糸場之図』です。

六工社は、明治5年(1872)に創設した官営富岡製糸場から2年後の明治7年に創立しました。官営富岡製糸場を模倣した日本初の民間製糸工場でした。和田英らが伝習工女として入場した目的の1つに、郷里の松代に製糸場を創設することがありました。その暁には、英らが繰糸技術の指導者となるべく一等工女を目指しました。松代藩からは伝習工女以外にも蒸気や繰糸機などを参考にするため、その製造に携るよう拝命された者たちが富岡製糸場を幾度か訪れています。

 

 

 

 

 

 

 

官営富岡製糸場の器械は、フランスから取り寄せたものでした。当時の日本で同一のものを製造することは大変困難だったでしょう。六工社の蒸気釜は地元の松代焼の釜が使われたそうです。地元にはボイラーはもちろん煮繭や繰糸釜、蒸気を通すパイプなどをつくる技術はなかったため、大変苦心したようです。

 

富岡日記(信濃古典読み物叢書より)には、六工社の器械について述べている部分があり、「かねて覚悟していたことなので別に驚きもしませんでした。かえって、これほどまでによく出来たものと思いました。しかし、富岡と違いますことは、もう天と地ぐらいあります。銅、鉄、真鍮製であったものは、だいたい木で作ってあります。ガラスは針金に変わり、煉瓦は土間となっています・・・しかし、まずまず蒸気で糸が取れるということだけでも、日本人だけでほんとうによく出来たと感心」したとあります。しかし、蒸気はスムーズに行き渡らず、繰糸効率はなかなか上がらなかったようです。9日間も繰糸し続けると燃料材の油煙が詰まりました。休日の前日に繰糸が終わると、直ちに釜掃除が行われました。掃除をするには、元釜の土で塗り上げている部分を毎回崩さないといけなかったようです。掃除が済んだら土の塗り替えです。六工社の責任者だった大里忠一郎までが、土をこねて手も足も泥だらけで働いていたというエピソードが書かれています。創業当時の苦労が垣間見られ、とても面白いところです。この時代に信州で工夫されたノウハウが、やがて日本の繰糸技術やその機械の発展に大きく貢献して行きます。

 

 

 

 

 

 

話を錦絵に戻します。繰糸部分の図。蒸気を熱源とし、各工女が独立して、繭を煮ることから繰糸を行い、1人で2枠の生糸を取るフランス式です。六工社では、50人同時に繰ることができました。

 

繭を桶に入れ運んでいる人、煮た繭から糸口を出している人、繰糸している人、繰糸が終了したのか車輪に手を掛けている人が生き生きと描かれています。

 

官営富岡製糸場のフランス式繰糸機については、過去に書きました。ご興味ございましたら、ご覧ください。「岡谷蚕糸博物館見学会その1 フランス式繰糸機について」

 

 

 

 

 

 

テーブルの図。緞子のような織物を敷いたテーブルで3人の男性が会議か商談をしているのかな。

 

 

 

 

 

 

選繭と再繰、仕上げ部分の図。右手前の赤い椅子に座って作業しているのは、これから製糸するための繭を選別しているところだと思います。左手前から奥に向かっている器械は、繰糸した生糸を大枠に巻き直す(再繰)ものです。動力は、隣の部屋の水力から来ていることがわかります。富岡日記では糸揚げ、当館では揚げ返しと言っている作業です。手前でしゃがんでいる人は、揚げている途中で糸が切れたので、その小枠から糸口を探しているところではないかな。奥の人は糸が切れていないか見守っているところでしょうか。それから、右の奥は、大枠から外した生糸を2人がかりで捻じって仕上げているところだと思います。描写が細かくて見ていて飽きません。

 

 

 

 

 

 

運搬の図。繭を運びいれている人と、生糸を運び出している人ではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

歴史博物館には、他にも蚕糸に関する資料があります。全てを書くと大変なので、以下印象に残った展示をあと3つご紹介します。

 

 

 

 

 

 

松本市にある宝輪寺蔵の『製糸絵馬』の複製。明治25年のもので、六工社を想わせる繰糸風景です。丸形の煮繭鍋と半月鍋がしっかり描かれています。

 

 

 

 

 

 

明治時代の製糸工女の服装の復元展示。左は工女に技術を指導する教婦さん、右は工女さんの服装です。

 

 

 

 

 

 

明治時代の製糸工女の食事の複製。左から、朝食、昼食、夕食の膳です。ご飯、味噌汁、おかず一品の食事で、ご飯と味噌汁はおかわりが自由に出来た。ご飯は、米に麦の入ったものだったが、時には米だけのこともあったとか。こうして具体的に目で見て学べるのはわかりやすくて、とても良いです。

 

山本茂実著『ああ野麦峠』を読んでいると、山奥の村からくちべらしもあって働きに来る工女たちは、白米が食べられるだけで喜んだそうです。出稼ぎの初期の頃は、食事が対価で賃金が発生しなかった事例もあるようです。貰えても、足下を見られて賃金が安かったとか。

 

 

 

 

 

 

さて、長野市松代にある和田英の生家、重要文化財 旧横田家住宅に移動しました。

静かな住宅街にあります。建物前には専用の駐車場がありました。

 

 

 

 

 

 

和田英の生家にやっと来られました。富岡日記ファンなので感無量です。

 

旧松代藩士横田家は、禄高150石の中級藩士で郡奉行などを務めた家でした。この住宅は他の藩士宅と同様に、一種の公舎で、横田家が現在の地に移ったのは18世紀末だそうです。屋敷は江戸時代末期の様相で、当時の位置に屋敷地及び建物がほぼ完全に保存されており、貴重なのだそうです。

 

 

 

 

 

 

 

池に面した仏壇と床の間のある座敷。

 

 

 

 

 

 

庭から見た外観。一番奥の建物は隠居屋です。英の祖父はここで余生を過ごしたのではないでしょうか。英が富岡製糸場へ行っていたのは1年3ヶ月のことです。この間に祖父は病になり亡くなっています。製糸場に届く家族からの手紙で祖父の病を知った英は、一之宮の貫前神社へ参拝し祖父の全快を祈っていました。富岡の地から、祖父の顔、家族、この生家をいつも思い出していたことでしょう。富岡日記の祖父の訃報を記したところは、読み返すたびに涙が出てしまいます。

 

 

 

 

 

 

隠居屋からの庭の風景。

 

 

 

 

 

 

旧横田家住宅の真正面の専用駐車場の隅に、代官町(原)窯跡の標柱がありました。

後で調べると、松代藩の松代焼は、天王寺山焼、寺尾焼、荒神町焼、代官町焼(岩下窯・原窯)の陶製品の総称でした。先にも述べましたが、六工社の蒸気釜は地元の松代焼の釜が使われたそうです。六工社の創設には、英の父の横田数馬が尽力しているので、横田家の真ん前にある岩下家が窯で関係していたのかと連想しました。しかし、この代官町焼は1843年で終わっているようなので、ここで蒸気釜を作ったのではないですね。ちなみに、蒸気釜の考案者は松代藩士の海沼房太郎という人です。松代焼の釜は凍み に強く、使いやすい利点があったとのことです。

 

 

 

 

 

 

旧横田家住宅を後にし、松代町西条へ向かいます。写真中央の谷地を山のほうへ向かうと六工社のあった場所へ辿り着きます。

 

 

 

 

 

 

六工社の跡地です。

明治7年(1874)に松代藩士大里忠一郎らが同志数名と共に計画しました。その中には、横田数馬の助力もありました。六工社の沿革は、歴史博物館の大正9年(1920)の展示資料によると、六工社製絲場はこの西条とその後松代にも工場があったようです。明治26年には松代工場が独立して六工社を名乗り、西条の工場は本六工社を名乗った。当時の六工社はわずかに組合的に製糸業を経営していたに過ぎなかったが、明治34年に合資会社本六工社になった。最初の六工社製絲場は50人繰り(50釜)だったのが、大正9年に工場は本社工場と第一工場、松代工場の3工場を合わせて732釜で、松代一の製糸会社になっていたようです。

 

 

 

 

 

 

ここに繰糸場、釜場、水車、工女部屋、薪置き場、用水池、帳場炊所、浴室等が備えられたのですね。

いまでは、その面影を見つけることは難しいです。右の建物は最後は椎茸か何かを生産していたような感じがしました。当館の見立てでは、もし、右の建物がかつて蚕糸関連に使われていた物だとすれば、蚕種の催青をしていたかもしれないなと想像するくらいです。看板の後ろに桑の木が一本ありました。左の建物の外に稚蚕用のような蚕箔が雨ざらしになって立て掛けられていました。関連があるかは全く不明です。

 

 

 

 

 

 

六工社があった場所には谷川が流れています。

 

 

 

 

 

 

歴史博物館の錦絵や復元にもありましたが、当時の器械製糸の動力には水車が必要だったので、水のある立地が不可欠でした。その軌跡を求めて川沿いを少し上ってみました。

 

 

 

 

 

 

夫が工場跡地の方へ向かって人工的に引かれた水の取り入れ口を見つけました。

 

 

 

 

 

この写真の中央にある長い石材は、昔使われていた取り入れ口のものではないかと想像しています。そうだとしたら、ロマンチックだと思いませんか。

 

このブログを書くにあたり、改めて六工社の資料を探してみたのですが、有意義な資料を見つけることが出来ませんでした。詳しく調査している研究者が少ないのかも知れません。もし、六工社の製糸に関する良い資料をご存知の方がいらっしゃいましたら是非お教え下さい。もっと学びたいと思っています。

 

 

 

 

 

おまけ。六工社跡地を流れる神田川の動画をYouTubeにアップしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

繭糸の検査

 

春の養蚕が無事に終わりました。

繭かきの日のことを書いていないのですが、この日は養蚕ワークショップで、その模様はton-caraさんがブログにアップしてくれました。"2018年春蚕養蚕ワークショップ6/11繭かき" ご覧ください。

 

上の繭は、ton-caraさんで明日から3日間行う「生繭による座繰りワークショップ」で使う新小石丸です。

ちらっと告知です。最終日の6/16(土)のみ空席が2席ございます(6/13現時点)。生繭は通常手に入りませんし、糸にできる日数も限られるので、この機会にぜひご体感ください。座繰りをするのが初めてという方も歓迎します。詳しくは、ton-caraへご連絡下さい。

 

 

 

 

 

 

さてさて、群馬県のオリジナル蚕品種「新小石丸」は、「小石丸」と中国蚕品種「二・一」を交配したものです。原種小石丸の特徴を持ちつつ、原種よりも飼育がしやすく、糸量も多くとれる優れた品種です。

 

当館では、この蚕品種を以前から飼育していますが、春のシーズンに飼育するのは初めてです。春蚕期の糸データが無いのと、明日から座繰りワークショップが始まることもあり、繭糸の繊度検査を行いました。

 

 

 

 

 

 

当館の座繰りの仕事では、繭1粒の繊度がとても重要です。今回のように、データの無い繭を座繰りする場合は、事前にこの検査をします。これを調べるには、繭を中の蛹が見えるところまで繰り、その生糸の長さと糸量を計算して、繭1粒のデニールを出します。検定所のように精密には行きませんが、小数点第二位までの秤があるので、当館が必要なレベルの数値まではこれで出せます。お客様から原料繭を持込んでの座繰り依頼もこの検査を行っています。

 

 

 

 

 

 

この作業で便利な検尺器です。この道具とは13年来の付き合いです。一定の糸の長さを測るために使われます。枠周は112.5cmで、400回巻き取ります。この箱の内部は木の歯車が組み合わさっており、200回巻くと一度止まる仕組みです。

 

 

 

 

 

 

今年の春蚕期はお天気に恵まれ、上蔟と蔟中も温暖でしたので良い繭が収穫出来ました。生糸も良好です。

 

 

 

 

 

2018年春蚕の経過報告

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6月3日(日)のBS朝日『暦を歩く』をご覧いただきました皆さま、ありがとうございました。

この番組は、一年の時の移ろい=「暦」を四季折々の「歌」に織り込み、それぞれの歌に息づく日本人の原風景を一篇の詩のような美しい映像でお届けするのがテーマだそうです。番組HPの中に、バックナンバー#171「養蚕」(群馬県安中)があります。この回の歌は、小林一茶の俳句「さまづけで育てられたる蚕かな」でした。暦の1つに加えていただき、嬉しいです。

 

せっかくなので季語を調べてみると、晩春には、蚕にまつわるものがたくさんあるのですね。桑、桑摘、蚕飼(こがい)蚕卵紙(たねがみ)など。面白いところで桑売(くわうり)というのがありました。ベテラン農家さんの話で、養蚕が最盛期の頃は桑が余ると他の農家に売ったり、足りないと買いに走ったというのを聞いています。いまはあまり聞きません。それから、蚕豆(そらまめ)の花というのもありました。

 

 

 

 

 

 

さて、当館の春蚕のご報告を。

5/26に5齢の1日目を迎えた写真です。

 

 

 

 

 

 

これは5齢6日目のお蚕さんです。

桑を毎日食べて、飼育台に枝がたくさん積み上がりました。一般的な飼育台では5齢期の途中で一度掃除をして、食べ残しの枝や蚕糞を片づけます。当館の飼育台は深いので、5齢途中での掃除はしません。なので、5齢の蚕が食べた桑の量がよくわかります。

 

 

 

 

 

 

トラックの荷台の桑は、飼育台1列にいる蚕が一番食べた日の写真です。枝の重さも入っていますが、1日に約200キログラムを食べました。

 

 

 

 

 

 

糸を吐き始める前日のお蚕さんです。

 

 

 

 

 

 

飼育が始まった日と比べると、成長の早さと大きさに驚きます。5齢の蚕は卵から孵ったばかりに比べ体重が約10,000倍、体長が約25倍といわれています。当館が今回飼育した「新小石丸」は一般的な蚕品種より飼育日数が短いので、数字はこれよりも若干小さいでしょう。

 

 

 

 

 

 

そして、卵から孵って23日目の6/1に当館のお蚕たちは、糸を吐き始めました。

お蚕上げの日は養蚕ワークショップでした。作業の様子はton-caraさんがブログに詳しく書いて下さいました。ぜひご覧ください。

 

 

 

 

 

お蚕上げをする前日の夜までしっかり桑を食べさせたことと、当日は晴天に恵まれ、この春の蚕達は直ぐに繭をつくり始めました。例年だと夕方には肌寒くなるので直ぐに室内を温めないと蚕の活動が鈍るのですが、この日は暖房をつけなくても20時頃まで室温は22℃ありました。なので、蚕は長い時間とても心地よく糸を吐くことができました。

 

 

 

 

 

 

蔟中1日目の夕方、ほとんどの蚕が格子の中に納まって繭をつくり始めたので回転を止めるストッパーをしました。白い丸の部品がそれです。回転蔟の特徴は蚕が上へ上る習性を活かしています。上部の格子に蚕が住まいを作り重くなると、その重みで自然に回転し、下部だった空き格子に蚕がまた上り、まんべんなく蔟に繭が作られます。このときの回転は激しくなる場合があり、弾みで蚕が地面に振り落とされることも少なくありません。農家によってはこれが可哀相で、天井に吊るした時に直ぐストッパーで固定し、人間が時を見て優しく回転させるという方もあります。振り落とし以外にも、回転させない方が蚕は落ち着いて繭をつくることが出来ます。当館は人間が就寝している間が困りますから自然に回転させますが、この話を聞いてからは以前より早めにストッパーをするようになりました。

 

蚕は繭を作り始めてから3日以上経つと糸吐きを終えます。吐いた繭糸の長さは1000m以上になります。繭の中からは糸を吐くピチピチという小さな音が聴こえなくなり、無になったような静けさです。中では幼虫から蛹への変態が行われています。あとは繭かきの日を待つのみとなりました。