「ありがとう」の言葉で人生をしめくくりたい
父母を失って・・・・
父の一年忌を済ませて、これからいろんな所にでかけようね
と早速、熊本で初講演する中村吉衛門の大歌舞伎に一泊二日で出かけた。
あの大喜びした母の顔を見ることはもう出来ない・・・・
父の3年忌も待たずに逝ってしまいました。
とても元気だったのに、別れて1週間後に一人で倒れてしまうなんて信じられないことが起った。
前の日も電話で明日帰るからと話したばかりだったのに、あと一日待っていてくれたら.....
父を失ったことを受け入れられず、高齢での突然の一人暮らし、どんなに辛かったことか・・・
それから8ヶ月間の闘病生活
とてもガンバリ屋だったことは経過でよくわかる。
病院の先生も奇跡の回復力だねと感心していた。
今思えることは、親というものはどんな時もたとえ病魔と闘いながらも
人生を教えてくれるありがたいものだということです。
ところが、
2014年5月31日午後6時20分
こころが逸る高速道路の運転中、兄から携帯に今、亡くなったと連絡が入る。
どうして、何故、待っていてくれなかったのか~と悲痛な叫びの混ざった返事をした。
言ったところでどうなるものでもないことは分かっていたが、自然と口から飛び出し、二日間だけ熊本に帰ったことを後悔した。
父が亡くなって、仕事はいつだって出来るし一人残された母とはなるべく一緒にいてやろうと、ゆるす限り優先して時間を作ったのだが、今となってはもっと居てやればよかったとただ後悔ばかり・・・・
ただひとつ良かったことは家に一度だけでも連れ帰ったこと。
それまでは日常の大半は目を閉じたまま、それでもこちらが耳元で呼びかけると精一杯の力をこめて応えようとしていた。そのぐらいもう体力は落ちていたのに、5月21日に病院側からの一時帰宅を提案され、私は一も二もなく喜んで承諾し実行した。
とても晴れ晴れとした温かい日で、やはり長年暮らした我が家という空気、匂い、風が違うのか、驚くほどのハッキリとした表情、目力、
「お母さん家に帰ったよ、わかる?」という私の問いかけにまばたきしながら、頭をコクリと促した。我が家だとハッキリ自覚したようだ。仏壇、天井、床の間を見回して、そして父の遺影を目も離さず見つめていた。ホッとした私は実行して良かった最後の親孝行だったなと、うれし涙がほほを伝う、
それからの2時間位は母と私だけの穏やかな時間。神様が下さった時間だったと思える。
「お母さん、よく頑張ったね~さすがだよ、偉いね~、やっぱりかなわないね~、これからもどんどん帰ろうね~、」とにかく涙でクシャクシャになりながら嬉しくていっぱい話しかけた。
こころの中では一人にして「ごめんね」「寂しかったね」を繰り返しながら。
病院から車での移動中、もし容態が急変したら?との不安もあったが、それでも一度は家に連れて帰りたかったし、一緒に付き添った看護師1名、介護師2名も目を見張って、自宅効果って凄いね、どんな薬もかなわないねと喜んでくださった。そしてこんな状態なら一泊帰宅も大丈夫だね~とまで言って下さった。提案してくださった病院の皆様にはただただ感謝です。念願叶った一日でした。
今となってはあの時が母と私の別れの時間だった気がします。
静かなとても貴重な時間。
この世に産んでくれたこと、
無償の愛で育ててくれた大恩、
いつも応援してくれ、
心配してくれ、
帰るだけで喜んでくれたことなど、
沢山の感謝が湧きあがって・・・・
病院に帰ってからは、安堵したのか、ほぼ夢と現の世界を行き来するように目を閉じたままになり、いびきかな?と思うくらい穏やかな寝顔で、状態も安定していたので「お母さん月末処理してすぐ帰ってくるから待っててね」と29日に熊本に戻ることにした。30日だけ仕事して31日の朝帰る予定だったが、妹からの電話で血圧も心電図も脈も安定しているからゆっくりでいいよ。と連絡が入った。これまでの疲れもあり、この日の熊本は5月なのに34℃も気温上昇で荷物を積むのは夕方の少しでも気温下がってからにしようと休んでいた。
しかし、その2時間後容態が急変したと連絡があり、全速力でかけつけたが、間に合わなかった。
やはり熊本は遠い。
自宅帰宅から10日後に安心したかのように母は父の元へと旅立っていった。「お母さんはお父さんを探していたものね。よく頑張ったと父が迎えに来てくれたのでしょう」と額に手をやるとまだ温もりがあり、それはそれは驚くほど綺麗な顔で父のもとへと逝ってしまった。
現在103歳の現役医師である日野原重明先生のご本で読んだことがありますが、老いてからの死は苦しまない、実際はこれくらいではまだ死なない大丈夫だろうという時に最後を迎えます。と書いてあったことをなんとなく思い出していた。
父母は共に何年もの長患いをする訳でもなく、又、かといって突然姿を消す訳でもなく、死へのカウントダウンの中で密な時間を子供達に残して逝ってくれた。
父は秋空の日。母は春風に乗って、天上での二人の笑顔が目に浮かぶ。
どんなに最先端の医療をもってしても、死を征服することはできない。必ず生まれた者は死なねばならない。それが自然の摂理だ。
死にゆく姿はその生きざま同様に、一人として同じということはありません。残念ながらの管だらけの形で最後を迎える人が多い中、父母は二人とも苦しまず、安らかにさよならしたことがせめてもの救いです。「終わりよければすべてよし」とは有名なシェークスピアの戯曲名のひとつですが、人生こそ まさにそのようなもの、だからこそ生きかたが大事となる。よい習慣を早くから身につけたものは実りが大きいといいます。
納得して死ねるか、さらに言えば最後に「ありがとう」と言って死ねるかどうかだと思います。
物言わぬ母でしたが、一時帰宅のあの時、母の「ありがとう」が聞こえた気がします。
無理な延命措置さえしなければ、老いてからの死はあまり苦しまず安らかである。ということを父母から学びました。平均寿命は超え年齢に不足はないにしても1年8カ月の間に父母を次々と失うことは、悲しみが深い。親孝行が最大の原点だった私は親の喜ぶ顔が見たくてこれまでを頑張ってこれたのです、大きな支えを失い、まだまだ受け入れるには時間がかかりそうです。
好きだった歌謡曲番組があると、ついいつものように電話で教えたくなる。特に美空ひばりが大好きだった。チャンネルを教えると分かったありがとうといつも喜んでくれていた。街角で背格好が似ているご婦人を見かけると思いだし、あぁもうそうか二人ともいないのか~と何とも切なく胸が痛む。
元気確認のため、出来る限り毎日欠かさず電話を入れたが、今はもうその必要も無くなった。
倒れる数日前、「この家でおまえと一緒に暮らそう、あんたの家は売ればいい」と子供みたいに言ったことがある。今考えると最愛の父を失った喪失感、孤独感、寂しさは計り知れないほど悲しかったに違いない。分かってやれなくてごめんね。 いまはその喪失感、孤独感、寂しさが私にはわかります。
地位や名誉は死ねばなくなる、忘れられる、財産も残したところで争いの種をまくだけ、「ありがとう」の一言は、残される者のこころを救う何よりの財産です。
私はこれまで父と母と義父の3人を看取りましたが、物言えぬ父母には心から、義父には20数年前でしたが、ちゃんと口に出して「かずちゃんありがとう」を言ってもらえました。
私も64歳、いずれもっと年を重ね深いしわが顔に刻まれようとも、母のようにイキイキと美しくありたい。いつもにこにこと微笑んでいられるような毎日を送っていれば、顔にはいつか微笑みのしわが生まれます。老いて一層、こころの内面は顔に表れますから。
微笑みのしわを増やせるよう十分に「気」をみなぎらせ、健康であることのありがたさに感謝しながら、
生きているうち
働けるうち
命一杯、素敵な日々を生きようと思います。
この世に誕生させてくれ、無償の愛で育ててくれて、返しても返しきれない父母の大恩をいくらかでも返し、気持ちを軽くするためには、残った人生を明るく光に向かって生きるしかない。
ここにわたしが感動した詩をおくります。
生きている 健康である
手が動く 足で歩ける
目が見える 耳が聞こえる
このあたりまえの中に、ただごとではないしあわせがある。(東井義雄)
「気」こそが人を健やかにいきいきさせる源にちがいありません。
生前、元気だった頃の父母に、また病んでからの心からのお見舞いにそしてお通夜、お葬式と遠くから、近くから、かけつけてくださり、沢山の励ましの声をくださった皆様のご健康を心からお祈り申し上げ
御礼とさせていただきます。
どうぞ皆様いつまでもお元気でお過ごしください。
本当にありがとうございました。
平成26年6月吉日
三星食品 代表 鳥濵 一子