「新しい戦前になるんじゃないですかね」

タモリのこの言葉を聞いたとき、凡笑は、うまいことを言うなあ、と思うより先に、

ああ、この人は“匂い”を知っているんだな、と思った。

戦争は、音を立てて始まらない。

むしろ逆だ。

静かになる。

異論が減る。

議論が減る。

そして最後に、疑問が減る。

世界が静かになったとき、何かが始まっている。

戦争は、怒りから始まらない

凡笑は若い頃、戦争は怒りから始まるのだと思っていた。

怒り狂った指導者がいて、怒り狂った民衆がいて、世界が壊れるのだと。

だが、どうも違うらしい。

戦争は、正しさから始まる。

守るためだ。

必要だからだ。

仕方がないからだ。

その言葉は、怒りよりも静かで、怒りよりも強い。

怒っている人は、まだ止まれる。

だが、正しいと思っている人は、止まらない。

なぜなら、止まる理由がないからだ。

凡笑は、戦争を知らない。だが「空気」は知っている

戦争そのものは知らない。

だが、「空気」なら知っている。

会議で、誰も異論を言わなくなる瞬間。

本当は少しおかしいと思っているのに、「まあいいか」と流れていく瞬間。

あの感じだ。

誰も命令していない。

誰も強制していない。

だが、止まらない。

空気が動くとき、人は、自分で歩いているつもりで、運ばれている。

最も危険なのは、「悪人」ではない

これは、少し意外な話だが、歴史を見れば明らかだ。

世界を壊したのは、必ずしも悪人ではない。

むしろ、真面目な人間たちだ。

責任感のある人間。

誠実な人間。

自分の役割を果たそうとした人間。

彼らは、悪いことをしているつもりはなかった。

ただ、正しいことをしているつもりだった。

だから止まらなかった。

凡笑の小さな実感

凡笑は、寺の掲示板に法語を書く。

「他人のものさし 自分のものさし

それぞれ寸法が ちがうんだな」

相田みつおさんの言葉。

これを貼るたびに思う。

自分のものさしほど、疑いにくいものはない。

人は、他人の間違いはよく見える。

だが、自分の正しさだけは、ほとんど疑えない。

これは怠慢ではない。人間の構造だ。

正しさは、光そのものだから。

自分自身が光になってしまったら、自分の影は見えない。

やがて、影があること自体を、忘れてしまう。

仏教が言う「無明」とは、たぶんこのことだ

無明とは、知らないことではない。

知っていると信じて疑わないことだ。

「自分は正しい」

この確信は、心を安定させる。

だが同時に、世界を狭くする。

疑いは、不安を生む。

だが、疑いだけが、暴走を止める。

凡笑は、世界を救えない。だが、自分の足は止められる

世界の流れを変えることはできない。

戦争を止めることもできない。

だが、自分の心の中で始まる戦争なら、少しだけ遅らせることはできる。

怒れるのに、怒らない。

行きすぎたら、止める。

これは、立派な理想ではない。

ただの、小さな技術だ。

だが、世界はたぶん、こういう小さな技術の積み重ねでしか守られない。

結びに

戦争は、遠くで始まるのではない。

「私は正しい。相手は間違っている。」

そう思った瞬間に、静かに始まり、やがて国家を動かす。

だから仏教は世界を変えよとは言わない。

ただ、こう言う。自分の心を見よと。

世界は心の集合だからだ。

自分の正しさを疑うこと。

それは不安定な行為だ。

だが同時に、破壊を防ぐ、最後の防波堤でもある。

だから凡笑は、今日も少しだけ、自分を疑う。

この考えは、本当に正しいのか。

この怒りは、本当に必要なのか。

疑いは、弱さではない。

疑いは、止まるための、最後の手すりだ。

その手すりを手放さないことだけが、凡笑にできる、ささやかな抵抗である。


南無阿弥陀仏。