「燃ゆる女の肖像」を観た。

 

前回の感想ブログから大分時間があいてしまった。これは単にサボっていたのではなくて、シンプルに映画館に行く心理的余裕と金がなかった。やっと一段落着いたので書いていく。

あと、感想が少しきつい言葉になってしまってさすがに公開するのを没にしたのがあることと、配信かつ二度目の鑑賞のものは書く気が起きなかったのが、時間が空いてしまった要因であると言い訳する。

とかいいながら、この映画を観たのは新年あけてすぐだったので、まあ普通にサボっている。

 

話を「燃ゆる女の肖像」に戻す。

 

絵画教室の教師をしているマリアンヌの回想からこの物語は始まる。舞台は18世紀フランスのブルターニュの孤島。父名義の絵画を描きながら生計を立てているマリアンヌは、娘の結婚相手に送るための肖像画を描いてほしいという夫人の依頼を受けて、ブルターニュの孤島へ向かう。娘であるエロイーズは結婚、そしてそれにつながる肖像画を描かれること自体を拒否していた。

そのため、マリアンヌは話し相手として呼ばれた態でエロイーズに近づき、肖像画を描くためにエロイーズを観察していく。観察を続けるうちに、徐々にエロイーズに惹かれていくマリアンヌだったが、肖像画の完成はエロイーズの結婚、つまり二人の恋の終わりを意味するものだった。

 

とりあえず画面がずっと綺麗だった。絵画のことは全く分からないけれど、構図が絵画みたいでうっとりしてしまった。マリアンヌとエロイーズもこりゃ結ばれるわ…納得…という感じ。エロイーズが燃えてた時なんてよくキスするの我慢したな。

 

ソフィも素敵な役だった。中絶は女性に常について回る問題で、それは妊娠や出産と同じ問題である。後者だけが神聖だとかそういうことは全くないということをよく示す処置のシーンだった。マリアンヌもまあなんだかんだ言って良いとこの育ちだとおもうけど、妊娠・中絶という問題はそういうところを飛び越えて連帯を結ぶことができるのだろう。ただ、それは医学が発展していなかった18世紀の話ではあると思うが。今は経済的、教育的格差がリプロダクティブ・ライツに直結しているので、むしろ今の方がそういう観点からの連帯は難しいのでないだろうか。(あと、個人的に妊娠機能による連帯はあまり好きになれない)

 

マリアンヌとエロイーズ、そしてソフィの連帯を可能にしたのはなによりも婦人の不在だった思う。家父長制の積極的維持者である婦人が家にいるだけで、3人は家父長制に取り込まれてしまう。それは、家父長制というものが個々人の性格とか意志だけでどうにかなるものでは無いということを示しているのではないか。

婦人が楽しそうに笑う数少ない(というか唯一?)シーンが、友人の容姿を馬鹿にする会話だったので、そりゃお前には連帯は無理だよ、と突っ込んでしまった。ただ、もしかしたら婦人にもミラノに連帯できる友人がいたのかもしれないと思うとつらい。

 

この映画ではマジで男性が記号としてしかでてこない。3人でのユートピアを楽しんだ後、食堂で絵画を運ぶ係の男性が食事をしていたのを目撃した瞬間は、衝撃的だった。ああ、終わった…という感じ。

 

最後のシーンは、解釈が結構分かれているらしい。私はエロイーズはマリアンヌのまなざしに気付いていたと思う派だ。

3人でオルフェの愛について語り合っていたころは、エロイーズはオルフェが振り返ったことを「衝動的にそうせずにはいられないほど愛していた」と解釈していた。しかし時を経たエロイーズは、二人のこれからを見据えて、振り返らないこともまた愛である、とオルフェの解釈を変えたのではないだろうか。だからこそ、婦人や母親としての地位を捨てることはできない自分は、衝動的にマリアンヌにまなざしを返すべきではないと判断したのではないだろうか。これが「大人になった」ということなのかな、社会構造によりきつく縛られていくということなんだろうか。

 

 

ラストシーンでは、やはりCMBYNを連想してしまった。そして、無責任にマリアンヌにまなざしを返さなかった(と私は解釈している)エロイーズを観ていると、君を愛しているけどどうしようもないんだ、とわざわざ未成年に電話して婚約報告をしてきた大学院生を思い出してしまった。