流派を超えてお茶好きが集まっている「茶の湯歳時記同好会」

今年から入会させていただきました

 

初の参加です

大阪府堺市に千利休さんをたずねました

44名の団体です

 

千利休屋敷跡と言われている所

 

 

「椿の井戸」

椿の炭を井戸底に沈めていたと言われています

井戸屋形は大徳寺山門の古い部材が使われています

 

古いものなので、現在のようにきれいに鉋がけはされていません

チョウナと呼ばれる道具で粗削りされています

 

 

 

そして南宗寺

臨済宗大徳寺派

戦国武将の三好長慶が父である元長を弔うため、

弘治3年(1557)に大林宗套を開山として建立、

千利休の師である武野紹鴎は大林宗套に参禅して

「茶禅一味」

の言葉をもらいわび茶を深めました。

千利休も第二世笑嶺宗訴に参禅して禅に開眼しました。

 

慶長20年(1615年)の大阪夏の陣により焼失後、

沢庵宗彭により寺地を現在の場所に移して再建されました。

 

「茶の湯歳時記同好会」の世話役である檀上さんは

こちらのご住職と古くからのお知り合いということで、

普段では入らせてもらえない所も案内をしていただき、写真も許可していただきました。

 

総門

 

 

甘露門・山門(国指定重要文化財)

 

 

三好長慶像

 

千家の墓

中央に利休、その左に宗恩道安宗旦、そして今日庵代々の家元が続きます

利休の右には少庵、そして不審庵代々の家元

右手前には官休庵の3名の家元の墓

 

武野紹鴎の墓

 

唐門(国指定重要文化財)

 

坐雲亭

大阪夏の陣で焼失した堺の復興状況を、この二階から秀忠や家光が堺の町を視察した。

が、真実は家康の墓参りとの伝説がある。

 

家康の墓-東照宮碑-

大阪夏の陣にて真田幸村の奇襲に会い負傷し、

駕籠で逃げる途中に後藤又兵衛の槍に突かれ、

這う這うの体で南宗寺まで逃げてきたが、家康はすでに亡くなっていた。

家康の死は士気の低下に関わるので南宗寺に密かに葬られて、

その後は影武者が家康の代わりをしたという伝説が残っている。

この境内の瓦には葵の御紋が使われています。

この家康の墓は戦前まではもっと小さかったのですが、

昭和42年に建て直されました。

 

水戸徳川家家老の末裔である三木啓次郎氏の進言により

岩上二郎氏、松下幸之助氏、丹羽正治氏他の賛同者により

今の墓碑に改められた

これは墓碑だが、庭には他に家康の墓がある

こちらは写真を撮る時間がなくて残念

 

本堂

 

 

茶筅供養

 

仏殿天井

「八方睨みの龍」

どこから見てもこちらを睨んでいるように見えます

 

実相庵

利休好みの茶室 2畳台目

 

そして隣り合わせの8畳の茶室2つ

表千家用

 

裏千家用

床の間口の広さや造りが少し違います

 

方丈・枯山水の庭

 

鐘楼

 

 

客殿には千利休座像武野紹鴎座像が並べて置かれています

その客殿にて準備してきたお茶やお菓子を出して、

数名の方にお茶を点てて頂き、

皆さんと一緒にいただきました。

 

最後にここのご住職・田島硯應老師からお話を伺いました。

この客殿に掛けてある軸「無事是貴人」より

よく目にするこの言葉、分かるようで理解できていない

 

ご老師が言われる

「無事とは何か。怪我をしない、病気にならない・・と言う意味・・ではない。無事とは心の中に欲望がないこと。これすなわち仏様(貴人)である。お茶においては、手、口、心を清め、仏になって席に入る。その席も羽箒で掃き清め、茶碗、茶杓、茶入れも清めて清々法心。お茶席は仏の世界である。お茶はこういう仏教思想から生まれた。もともと堺は泉南と呼ばれていた頃、寺社が沢山あり泉南の仏国土と言われた。千利休と与謝野晶子を紹介する施設「さかい利晶の杜」が2015年3月にオープンしたが、ただ単に博物館的に展示品を見てもらうだけでなく、堺の子供たちにお茶の文化に触れてもらって、実際にお茶を点ててもらう中から文化をはぐくんでいきたい。」

 

そして御朱印

大雄は釈尊のことで、釈迦仏が本尊のもののみをいう。