カップ麺 中華そば | 三茶(さんさ)

三茶(さんさ)

だいずくんです

 
11月20日 月曜日

晴天であったが、終日、風が強かった

先日、東京で木枯らし1号が吹いたが

今日は、2号かな

 

かみさんが外出していたので

お昼は、カップめんを食べた

 

埼玉日高の名店 とんちぼ 
カップ麺表紙
 
煮干しの味がスープに沁み渡り

まろやかな<中華そば>の味を

醸し出しています

何も足さない そんなシンプルな
中華そばです
 
 
カップ麺の表紙の裏側
 
一度、訪れたいお店です
埼玉県日高市にはおいしい中華そば屋さんがあるらしい
 
そういえば
中華そばチェーン店というと、「日高屋」
社名は、創業者の出身地である埼玉県日高市
当時は入間郡日高町)に由来する
 

江戸後期に出版された『江戸名所図会』は、
「南は多摩川、北は荒川、東は隅田川、
西は大岳(たいがく)・秩父根を限りとして、
多摩、橘樹、都筑、荏原、豊島、足立、
新座、高麗、比企、入間等すべて十郡に跨る」
と解説している

 

と、いうことは

武蔵野の北限 川越近く

埼玉県高麗群があった

 

716年、朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた

旧高句麗から渡来系移民1,799人を

武蔵国の一部に移し、

高麗郡を設置したとされる

初代郡司は高麗若光で、

666年に高麗の副使として

天智天皇に貢ぎ物を捧げている

 
 
約1200年間続いた高麗郡は、1896年(明治29年)
入間郡に組み入れられて、その名が消えたこと
 
日高市では、「高麗(こま)」という地名や、

「高麗神社」や「高麗川」などの名称を目にします
これは、古代朝鮮半島「高句麗(こうくり)」と

深い関わりがあったことを表して

高麗郡は「高句麗」という国から日本に渡って来た人たち

(「高麗人」と呼ばれる渡来人)によってつくられた

 

ネットから引用

高麗郡をつくった時のリーダーが

「高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)」という人で

 若光は、666年(天智5年)高句麗よりのつかい

(戦いの援軍をお願いするため)として、日本へやってきた
 しかし、668年(天智7年)高句麗がほろび、帰れなくなった
 703年(大宝3年)、日本の朝廷より「高麗王」の姓を与えらえ
その時から「高麗王若光」と名のることになった
 歳をとって、白ひげをはやしていたので「白ひげ様」ともいわれた
との伝説も残っている
若光の死後、高麗人はあちこちに分散し、村を開いた
その際、若光を祀った「白髭神社」を自ら移り住んだ場所に
遷座し、その徳を称え続けた

うーん
すると、数年前に訪れた、隅田川の東 墨東
向島の白髭神社は、
 
武蔵野の北限から
荒川、隅田川を渡って、移り住んだ高麗人による
ものだったんだ
 
 
 
たまたま買った、中華そばのカップめんの
表紙と裏を見て
1300年ほど前の歴史ロマンに
思いを馳せることができました