過去記事 2017 神田上水 神田上水取水口~「お茶の水の懸樋」 | 三茶(さんさ)

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だいずくんです

 

5月21日 アルバイトに行く時に

メトロ御茶ノ水駅からJR御茶ノ水駅へ

お茶の水橋の中央を歩いていて

順天堂大学病前の東京都水道歴史館そば

神田川、神田上水取水口を見て

昔の記事を思い出しました

 

そして、両国駅から江戸博物館を見て

昨年の11月に訪れた江戸博物館で

見た江戸の上水の資料がまだ

眠ったままを思い出しましたので

やっと、アップできました。。。

 

2019/11/1 

 

 

 

 

神田上水の経路は、暗渠となった道路を追い求めて

何回も記事にしてきました

その中の一部です

 

 

神田上水 神田上水取水口~「お茶の水の懸樋」

2017/3/21

 

 

 

江戸川公園、東京都水道歴史館、小石川後楽園を
訪れ、その折に見た神田上水の痕跡を追って
みました
 
 
 
 
神田上水取水口大洗堰跡
徳川家康の江戸入り(天正18年―1590)の直後、
井の頭池から発する流れに、善福寺池、妙正寺池の
流れを落合であわせ、関口で取水して水路を定めた
のが神田上水である
 
 
現在の地図 神田上水の概念図  上の図を反転しています
 
 
青線が、神田上水路
 
関口台から、駿河台(神田台)と本郷台下を標高7mに沿って通した
現在の水道橋より御茶ノ水寄り、順天堂大手前にお茶の水の懸樋が
あった
 
 
江戸川橋関口
大洗堰
 
 
 
関口大洗堰は流れてきた水を左右に分脈し、
 左側を上水に使う水として水戸藩の江戸上屋敷(現在の小石川後楽園・
    東京ドーム)方面に流し、
 右側を余水として江戸川と呼ばれるようになった
 
 
 
 
 
関口の大洗堰
 
 
神田上水取水口の石柱
・・・関口の大洗堰(現在の大滝橋あたり)で水位をあげ、
上水路(白堀)で水戸屋敷(現後楽園一帯)に入れた。
そこから地下の水道で、神田、日本橋方面に給水した。
この大洗堰の取水口に、上水の流水量を調節するため
「角落」と呼ばれた板をはめこむための石柱が設けられた。
ここにある石柱は、当時のもので、昭和8年大洗堰の廃止に
寄り撤去されたものを移した。
なお、上水にとり入れた余水は、お茶の水の堀から隅田川へ
流された。 
昭和58年3月 文京区役所
 
 
 
 
 
水戸屋敷(現後楽園一帯)
 
 
 
 
水道橋交差点付近で発掘された遺構が 本郷二丁目の
「本郷給水所公苑」に復元されている
 
神田上水路 (出土したオリジナルで復元)
 
 
 
壱岐殿坂下で 約7m あった水位を有効に保つには、
逆サイホン(連通管)の原理を使えばよい。 
石垣や石蓋の隙間に粘土を詰めて密閉すれば、
出口の掛樋で入口と同じ高さを 確保できる。
動力機関などはなにも必要としない。
 
 
 
 
 
東京都水道歴史館 の「お茶の水の懸樋」 模型
 
 
水路には「梁 やな」のような簀の子が斜めに取り付けられている。
葉などの大きなゴミが流れると、この先の細い木管などで詰まる恐
れがある。
懸樋には屋根が架けられ、点検通路が3本ある。
さらに梯子で一段下りて、樋の側面を点検・修理できるようになっ
ている。
側面には 安全確保のために、鉄製の「丸管」が取り付けられている。
 
 
 
ポイントは、できるだけ高い位置でお城側に引き込むこと。
そのために現在の江戸川橋の上流に「大堰」を築いて水位を上げた
お茶の水坂の途中から、対岸のサイカチ坂に向けて神田川を渡した。
 
 
 
上水路の完成に伴って、関口から上流の呼び名も「神田上水」とされた
かつての「平川」は関口から飯田橋まで江戸川、
飯田橋から浅草橋までを神田川と改称した
 
大堰で取水したあとは、等高線に沿って小日向の台地の南側を東へ
現在はそのまま道路となっている。 
 
小日向の上水路は長い間 「開渠」で、寺などの敷地出入り口には
石の蓋(橋)が架けられていたが、明治時代に暗渠とされた
 
 
1883年(明治16年)測量の 5,000分の1地図では、
文京区江戸川橋から上流が「神田上水」、
中間が「江戸川」、
水道橋あたり以降を「神田川」と
表現している。
 
 
中間の「江戸川」を分岐して、江戸幕府は、「神田上水」
を通した
 
明治になっても神田上水は機能していたが、その後、暗渠になり、
1965年(昭和40年)の河川法改正で江戸川の名称を廃し、
神田川に統一にした
 
 
水戸屋敷を出て御茶ノ水懸樋(万年樋)で神田川を渡り、
武家地や町人地を給水していた
給水を行うために樋と枡を使って、水道網を形成していた
 
後日、
給水を行うために樋と枡を使った水道網と江戸の給水方法を
記事にします