昔はこの川の流れによって遮断されていた地域、少しずつ頑丈な橋がかけられるようになって交流が盛んになりともに栄えるようになったのは明治から昭和にかけてです。昭和30年代まではそれでも大きな洪水で橋が流されていた歴史を持つこの地域、その地域の名前や街のつくりにもまだその歴史を見ることができます。最近はそのようなことを思いながら散策する毎日です。

 かつてはこの川の左右で郡部の名前も異なっていました。今は同じ美作市内となっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大山(おおやま)の頂上部にも集落がありお茶や果樹の栽培がおこなわれています。そのうちの獣害を防ぐ金網に宮崎育ちの私には懐かしいナタマメの種が残されていました。