いつもありがとうございます。


1874年5月11日、日本で2番目の鉄道である大阪〜神戸間が開業しました。そして2024年5月11日、150周年となりました。おめでとうございます。

それに合わせていつものように鉄道模型でも…と思いましたが。残念ながら新規を一両も用意できませんでした。


ということで軽く当時の10年くらいの話題でも。



5月11日に開業したのは大阪、西ノ宮(西宮)、三ノ宮、神戸の4駅です。6月1日には大阪〜西ノ宮に神崎(尼崎)、西ノ宮〜三ノ宮に住吉の2駅が開業。12月1日には貨物営業を開始しています。

1875年5月1日、大阪から安治川までの支線が開業します。安治川駅は大阪駅でスイッチバックし、現在の大阪市中央卸売市場やOsakaMetro阿波座駅の付近にありました。この路線は1877年12月1日に廃止となり、日本初の廃線と正式駅の廃駅となりました。


1876年7月26日、大阪から高槻、向日町まで延伸されました。8月9日には大阪〜高槻に吹田と茨木、高槻〜向日町に山崎が開業しました。

9月5日に向日町〜大宮通仮停車場、1877年2月5日に大宮通仮〜京都が開業しました。(大宮通仮は京都駅と引き換えに廃止、日本初の臨時駅廃止)

京神間全通の際には、明治天皇による開通式を京都駅で実施しました。

同年11月20日には貨物営業の範囲が京都まで拡大されました。


1879年8月18日、京都から稲荷、山科、大谷まで延伸されました。稲荷までは現在の奈良線のルートを通っており、そこから名神高速道路ルート上の「名神起工の地」付近に山科、現在の京阪京津線の大谷駅の近くに大谷駅を設けました。


1880年7月15日に大谷から馬場(膳所)、石場、大津(浜大津)まで延伸されました。ルートは大谷から逢坂山隧道を通り馬場、スイッチバックし京阪石山坂本線のルートで石場、大津です。


1882年5月1日には太湖汽船により大津〜長浜が琵琶湖上で結ばれました。長浜からは同年3月10日に開業した長浜〜金ケ崎(敦賀港)、1883年5月1日開業の長浜〜関ケ原(全線が旧線)と接続しました。


神戸から西は1888年に山陽鉄道により兵庫〜明石〜姫路が開業しました。1889年9月1日には神戸〜兵庫が開業し、官設鉄道と山陽鉄道の直通が開始されました。



では、この路線ではどのような車両を使用していたのでしょうか。



(5000形蒸気機関車模型 所蔵:鉄道博物館)

最初に登場したのは、1871年の新橋横浜間用の車両と同時に輸入された、日本初のテンダー式機関車です。

シャープ•スチュアート製の製番2141•2142の2両で、それぞれAとBと名付けられました。1874年の開業までには11•12となったようですが、明確な時期は不明です。

1876年、奇数を東日本、偶数を西日本とする一斉改番が行われました。この2両は西日本では最若番となり、それぞれ4•2となりました。12→2は「1」を取るだけで済むのでそうなったのでしょうか。ここで製番と車番の順番が逆転することになり、廃車まで続きました。

※昔の本では「2号機は新橋横浜間で特別列車を牽いた」と5000形を指して書かれていることがあります。これは間違いでして、後に160形になる方の2号機が牽引の任にあたっています。5000形は1871年の輸入当時から既に神戸にいます。

1894年にはO形、1898年にはD1形と改形式されています。

東海道本線の全通までは京阪神地区、それ以降も中京圏や北陸で活躍しています。

1909年の鉄道国有法絡みの改番では5000形5001•5000となり、廃車までこの番号を名乗ります。

1913年に5001は東京へ転属、1919年に廃車となりました。

5000は1913年に神戸に出戻り、1921年に鉄道開業50周年を記念して東京で保存されました。しかし1923年の関東大震災で被災。放置された挙句、日中戦争中の金属供出のため1940年頃に解体されました。


なお5000は部品単位では現存しており、シャープ•スチュアートの銘板が鉄道博物館新館歴史ステーションに展示されています。蒸気ドームも一時期1号機関車に搭載されていましたが、現在は違うものに交換されています。


シャープ•スチュアート銘板  ガラスケースの中に数両分まとめて入っています。


1号機関車蒸気ドーム(現在のもの)  上の5000形模型と比べると上部の形状が異なります。交通博物館の画像を調べると5000形のドームが見つかるかもしれません。


2141→A→11→4→O-4→D1-4→5001

2142→B→12→2→O-2→D1-2→5000



(加悦鉄道2号機関車 所蔵:加悦SL広場→加悦鉄道資料館)


次に登場したのは、1873年ロバート•スチーブンソン製の4両です。鉄道の父とも言われるジョージ•スチーブンソンの会社による、初めての日本向け車両となります。

製番は2102〜2105で、番号順に13〜16と付番されたのが順当なのですが、証拠が無いらしいです。

1876年にはシャープ•スチュアート製の同型が4両輸入されました。製番は2480〜2483、車番は24〜27です。

1876年の偶数改番では6、8、10、12、34、36、38、40となりました。

1882年に36、40は日本鉄道に転属しSS2/3-16、17に改番されました。残る6両も1885年までに全車が新橋横浜間鉄道に転属しています。同時期に後述の勾配用機の1800形が登場しており、西日本の鉄道は一旦「平坦用テンダー機と勾配用タンク機」の2グループにまとめられました。また新橋横浜間鉄道は、1885年に日本鉄道と接続されるまでタンク機関車で統一されていました。

1894年にスチーブンソン製がF形、スチュアート製がG形になります。また34と38はそれぞれ31と32に改番されました。

1898年には6両がA4形にまとめられています。

1906年の鉄道国有法により、日本鉄道が国有化されました。その際に2両は140、141に改番されました。

またスチーブンソン製は120〜123、スチュアート製も130、131に改番されています。

1912年以降は小型機淘汰の対象となり、地方私鉄に譲渡されました。しかし譲渡先の鉄道が国有化され帰ってきてしまったものもあります。

123号機は最終的に加悦鉄道に譲渡され、1977年の廃車後は加悦SL広場に保存されました。2020年に閉園後は加悦鉄道資料館に移設されています。官設鉄道新橋工場製の客車と、讃岐鉄道のドイツ製客車と共に静態保存されています。


※会社名のない標記は全て国有

2102→13→6→F-6→A4-6→120→三河鉄道120

2103→14→8→F-8→A4-8→121→簸上鉄道1→121→南総鉄道1

2104→15→10→F-10→A4-10→122→三河鉄道122

2105→16→12→F-12→A4-12→123→ 簸上鉄道2→加悦鉄道2

2480→24→34→G-31→A4-31→130→宮崎県営鉄道130→防石鉄道130→台湾糖業5

2481→25→36→日本鉄道SS2/3-16→140→宮崎県営鉄道140→140→阿南鉄道140→140→越中鉄道140→国際軽銀140

2482→26→38→G-32→A4-32→131→内務省土木局131

2483→27→40→日本鉄道SS2/3-17→141→内務省土木局141



(1290形1292号機 日本鉄道向け同形式 所蔵:鉄道博物館)


大阪神戸間含め、関西の官設鉄道各線の建設用に1873年にマニング•ワードルから2両が輸入されました。狭軌の内側シリンダーという滅多にない構造で、保守に難があるからか3両で輸入が終わっています。それ以来マニング•ワードルは日本向け機関車を作っていません。

製番431、435の2両です。431は官設鉄道に入り21、435は大蔵省造幣寮1、1875年に官設鉄道に合流し32となりました。※異説あり、同年に輸入したのに番号が離れているので何か事情があるのは確かです。

1876年の偶数改番では22、24となっています。1885年にH形、1898年にB1形の形式が付きました。

1909年には1290、1291に改番されています。

1911年に千葉県営鉄道の1、2になりました。現在の東武野田線で活躍し、1922年の一時期には野田醤油工場の建設のため借入した1292号機と初対面しました。

1292号機は返却されたのち1923年に廃車、2両も1930年頃廃車となりました。


431→21→22→H-22→B1-22→1290→千葉県営鉄道野田線1→北総鉄道(初代)野田線1→総武鉄道(二代)野田線1

435→大蔵省造幣寮1→32→24→H-24→B1-24→1291→千葉県営鉄道野田線2→北総鉄道(初代)野田線2→総武鉄道(二代)野田線2

(815→25→日本鉄道25→日本鉄道W3/3-3→日本鉄道甲1→B1-1→1292→秋田鉄道貸出→伊豆箱根鉄道貸出→総武鉄道(二代)野田線貸出)


開業時に用意された機関車はこのほか7010形(キットソン製テンダー機、4両)がありました。

1874年時点 5000形x2 140形x4 7010形x4 1290形x2 合計12両

※当時の形式名とは異なりますが、便宜上後年の形式でカウントしています。




(大阪神戸間鉄道客車レプリカ 所蔵:交通博物館→鉄道博物館)

当時の客車は輸入された30人乗りの箱型客車でした。新橋横浜間鉄道とは異なる形状です。

1875年には早くも神戸工場で車体のみ国産製造するようになりました。

ちなみにこのレプリカ客車は1969年に造られたもので、走行に耐えうる構造になっているそうです。


京都開業時には7030形(バルカン•ファウンドリー製テンダー機、4両)、5130形(キットソン製テンダー機、6両)が増備されています。

1876年時点 5000形x2 140形x4 7010形x4 1290形x2 130形x2 140形x2 7030形x4 5130形x6  合計26両



(1800形1801号機 所蔵:交通科学博物館→京都鉄道博物館)

1881年開業の大谷〜馬場やその後開業の金ケ崎〜長浜〜関ケ原は勾配区間のため、タイプの異なる機関車が同年に輸入されました。それがこのキットソン製8両です。うち5両が京都側の急勾配区間に投入されました。

製番2371〜2374、2452〜2455で、62、64、66、68、54、56、58、60、と付番されました。

1892年にY形、1898年にB2形となりました。番号は1893年に44、46、48、50、39、40、41、42となっています。

1909年には1804〜1807、1800〜1803に改番されました。

1801と1803は高知鉄道に譲渡、うち1801は東洋レーヨンに渡り1964年まで活躍しました。廃車後は交通科学博物館→京都鉄道博物館に静態保存されています。

※この辺りの改番履歴が資料により異なるのはなぜなのか。


2371→62→Y-44→B2-44→1804

2372→64→Y-46→B2-46→1805

2373→66→Y-48→B2-48→1806

2374→68→Y-50→B2-50→1807

2452→54→Y-39→B2-39→1800

2453→56→Y-40→B2-40→1801→高知鉄道1801→東洋レーヨン滋賀工場1801

2454→58→Y-41→B2-41→1802

2455→60→Y-42→B2-42→1803→高知鉄道1803


1885年時点 5000形x2 7010形x4 1290形x2 7030形x4 5130形x6 1800形x5  合計23両



さて、珍しく自前の模型なしでの記事となりました。手持ちの画像だけで書く条件なもので、とりあえずこの量となります。

今後もなんらか研究を続けていく所存です。