東京以外の方はあまりイメージはわかないと思いますが、結構驚きませんか? 江戸城(今の皇居です)に一番近い海と言ったら築地あたりで約2Km、東京湾でいえば有明で約6Kmもあります(Google Earthから)。
江戸城は徳川家康が入城してまもなくは海に面していました。
そんな地図がこちら 。
(pocoさんありがとうございます)
地図では日比谷入江(日比谷湊とする本もありました)に江戸城が面しているのですよ。つまり今の日比谷公園あたりは海だったのです。この日比谷入江は満潮になると潮が満ちてくる湿地帯で、防御と家臣の領地のために大規模な埋め立て工事を行いました。神田台(神田山という本もあります。)を切り崩し、この日比谷入江を埋め立てますが、当時はブルドーザーやユンボなどの重機はありませんから、人手で工事を行うわけです。当然工事ですから、男ばかりが大人数いるわけです。こんなところから江戸の二大名物が生まれてきます。
○ひとつがお風呂
ただし、一番最初のお風呂は蒸し風呂だった通ります。当時は湯船ではなく蒸し風呂が一般的だったようです。でも、いくら今のようにヒートアイランドではないとは高温多湿の江戸の工事です。蒸し風呂では入った気になりません。神田上水ができ、水が手に入るようになると、いわゆる湯船のタイプのお風呂がはやることとなります。
しかも、江戸時代は火災予防のため内風呂は禁止ですから、すべて銭湯となり、銭湯が社交場となっていくわけです。
○もうひとつが吉原
工事関係者だけでなく、侍も参勤交代で江戸に来るわけで本当に江戸は男だらけでした。ある資料では65%が男性という位で、「娘一人に婿八人」ということが実感として感じられるくらい男性が多かったわけです。そこでできたのが、「吉原」です。当初は今の日本橋人形町あたりにできていましたが、開発が進んでいくと日本橋は江戸の中心になっていくわけです。さすがに中心に吉原があると幕府の体面もあるので、今の場所に移動させたわけです。
ちなみに当時の日本橋は葦(あし)の原っぱで、葦原と呼ばれていました。しかし、葦は悪し(わるしと読まないでください。あしと読んでください)につながるので、吉原に変えたようです。
この日本橋にあった吉原を元吉原といいます。絶対に大学入試には出ませんが、話の種にはなるでしょう。
今の言葉で言えば、うまくビジネスチャンスを捕まえたと言うところでしょうか。
江戸城は徳川家康が入城してまもなくは海に面していました。
そんな地図がこちら 。

(pocoさんありがとうございます)
地図では日比谷入江(日比谷湊とする本もありました)に江戸城が面しているのですよ。つまり今の日比谷公園あたりは海だったのです。この日比谷入江は満潮になると潮が満ちてくる湿地帯で、防御と家臣の領地のために大規模な埋め立て工事を行いました。神田台(神田山という本もあります。)を切り崩し、この日比谷入江を埋め立てますが、当時はブルドーザーやユンボなどの重機はありませんから、人手で工事を行うわけです。当然工事ですから、男ばかりが大人数いるわけです。こんなところから江戸の二大名物が生まれてきます。
○ひとつがお風呂
ただし、一番最初のお風呂は蒸し風呂だった通ります。当時は湯船ではなく蒸し風呂が一般的だったようです。でも、いくら今のようにヒートアイランドではないとは高温多湿の江戸の工事です。蒸し風呂では入った気になりません。神田上水ができ、水が手に入るようになると、いわゆる湯船のタイプのお風呂がはやることとなります。
しかも、江戸時代は火災予防のため内風呂は禁止ですから、すべて銭湯となり、銭湯が社交場となっていくわけです。
○もうひとつが吉原
工事関係者だけでなく、侍も参勤交代で江戸に来るわけで本当に江戸は男だらけでした。ある資料では65%が男性という位で、「娘一人に婿八人」ということが実感として感じられるくらい男性が多かったわけです。そこでできたのが、「吉原」です。当初は今の日本橋人形町あたりにできていましたが、開発が進んでいくと日本橋は江戸の中心になっていくわけです。さすがに中心に吉原があると幕府の体面もあるので、今の場所に移動させたわけです。
ちなみに当時の日本橋は葦(あし)の原っぱで、葦原と呼ばれていました。しかし、葦は悪し(わるしと読まないでください。あしと読んでください)につながるので、吉原に変えたようです。
この日本橋にあった吉原を元吉原といいます。絶対に大学入試には出ませんが、話の種にはなるでしょう。
今の言葉で言えば、うまくビジネスチャンスを捕まえたと言うところでしょうか。
