【佐賀】江戸時代の“韓流ブーム”…朝鮮通信使の行列を取り巻く人々の様子を通じて、江戸時代における異国文化との交流を紹介[9/13]

 
1 :もろこしφφ ★ :2011/09/13(火) 22:28:44.59 ID:???
 唐津市鎮西町の県立名護屋城博物館で、テーマ展「江戸時代の“韓流ブーム”」が19日まで開かれている。入館無料。

 朝鮮通信使の行列を取り巻く人々の様子を通じて、江戸時代における異国文化との交流がどのようなものだったかを関連
資料45点で紹介。幅36・5センチ、長さ105センチの「朝鮮通信使行列絵巻」は豪華な作りで、富裕層の特注品と考えられる。

 朝鮮王国が日本に派遣した公式の外交使節として、江戸時代に計12回総勢300~500人が来日した当時の熱気は、
今日の韓流ブームにも通じるところがあったという。

ソース(毎日新聞) http://mainichi.jp/area/saga/news/20110913ddlk41040493000c.html



28 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん :2011/09/13(火) 22:34:18.73 ID:OIq79GYR
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF#.E4.BA.A4.E6.B5.81
文化の違いや日本人に対する侮りから、通信使一行の中には、屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり
小便を階段でする、酒を飲みすぎたり門や柱を掘り出す、席や屏風を割る、馬を走らせて死に至らしめる、
供された食事に難癖をつける、夜具や食器を盗む、日本人下女を孕ませる、魚なら大きいものを、
野菜ならば季節外れのものを要求したり、予定外の行動を希望して拒絶した随行の対馬藩の者に
唾を吐きかけたりといった乱暴狼藉を働くものもあった。
警護に当たる対馬藩士が侮辱を受けることはしばしばあり、1764年(宝暦14年)には大阪の客館で、対馬藩の
通詞・鈴木伝蔵が杖で打ち据えられ、通信使一行の都訓導・崔天崇を夜中に槍を使って刺殺するという事件まで
起こっている。これは朝鮮の下級役人が鏡を紛失したと聞いた崔天崇が「日本人は盗みが上手い。」と言ったのを
鈴木伝蔵が聞きとがめ、かねてよりの朝鮮人の窃盗行為を非難したのが発端であった。

161 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2011/09/13(火) 23:10:59.97 ID:zwUXX/tc
日本の技術を学んで帰った通信使

では、日本を訪れた通信使たちは、日本でなにを見、いかに感じて帰国していたのであろうか。室町時代前期の1429年、
日本にきた朴端生は、次のように復命していた。それによると「日本の農人水車の設けあり」として、学生の金慎に「造車の法」を
精査させて模型を作り、鍍銀(銀めっき)、造紙(紙漉)、朱紅、軽粉等の製造法を報告している。この時の復命では、
日本の貨幣経済の実態や店舗商業の発展等にも及んだが、その中で技術に言及していたのは、渡航前に世宗から「倭紙堅靱、
造作の法また宜しく伝習すべし」と、日本の技術を導入するよう命じられていたからである。
(略)
これに対して日本では、朴端生が日本を訪れる百年以上も前に、水車を利用して離宮に川の水を汲み上げた話が『徒然草』
(第五十一段)に記されている。その水車が農民たちの手で取り付けられていたことを考えると、当時、日本と朝鮮の間には
相当の技術格差があったことがわかる。したがって、韓国の歴史教科書にあるように「技術を学ぶのに苦労していた」のは、日本側
ではなくむしろ朝鮮の方であったのである。そして、この現実は後世、実学者と呼ばれた人々が日本や清との技術的格差を深刻に
捉え、その導入方法に苦慮していたことでも明らかなように、近世に入っても変わりがなかったのである。

『日韓・歴史克服への道』下條正男著

186 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん :2011/09/13(火) 23:20:05.01 ID:a9iRCkUp
■朝鮮通信使、金仁謙(Kim In Kyeom)の著書『日東壮遊歌』

●1764年1月22日 大阪

100万軒はあると思われる家の全ては「瓦の屋根」だ。
凄い。
大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の10倍以上の広さで、銅の屋根で、黄金の内装である。
この贅沢さは異常だ。
都市の大きさは約40kmもあり、その全てが繁栄している。
信じられない。
中国の伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。
世界に、このように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。
ソウルの繁華街の10000倍の発展だ。
北京を見た通訳が通信使にいるが、「北京の繁栄も大阪には負ける」と言っている。
穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が中国の周の時代に、この土地にやってきた。
そして2000年の間、平和に繁栄し、一つの姓(つまり天皇家)を存続させている。
嘆かわしく、恨めしい。

●1764年1月28日 京都

街の繁栄では大阪には及ばない。
しかし倭王(天皇)が住む都であり、とても贅沢な都市だ。
山の姿は勇壮、川は平野を巡って流れ、肥沃な農地が無限に広がっている。
この豊かな楽園を倭人が所有しているのだ。
悔しい。
「帝」や「天皇」を自称し、子や孫にまで伝えられるのだ。
悔しい。
この犬のような倭人を全て掃討したい。
この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。

●1764年2月3日 名古屋

街の繁栄、美しさは大阪と同じだ。
凄い。
自然の美しさ、人口の多さ、土地の豊かさ、家屋の贅沢さ…この旅で最高だ。
中原(中国の中心地)にも無い風景だ。
朝鮮の都も立派だが、名古屋と比べると、とても寂しい。
人々の美しさも最高だ。
特に女性が美しい。
美しすぎる。
あれが人間だろうか?
「楊貴妃が最高の美人だ」と言われているが、名古屋の女性と比べれば、美しさを失うだろう。
(帰路にて)
名古屋の美人が道を歩く我々を見ている。
我々の一員は、名古屋の美人を一人も見逃さないように、頭を左右に必死に動かしている。

●1764年2月16日 江戸

左側には家が連なり、右側には海が広がっている。
山は全く見えず、肥沃な土地が無限に広がっている。
楼閣や屋敷の贅沢さ、、人々の賑わい、男女の華やかさ、城壁の美しさ、橋や船…。
全てが大阪や京都より三倍は優っている。
この素晴らしさを文章で表現する事は、私の才能では不可能だ。
女性の美しさと華やかさは名古屋と同じだ。

191 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2011/09/13(火) 23:20:46.07 ID:ZLxR5HGl
朝鮮通信使
江戸時代に日本に送った通信使は12回、一方宗主国に送った使節は正朝使とか謝恩使と呼ばれ、500回を越えると言われている。
頻度から見ても宗主国に送った使節は属国朝鮮にとって遙かに重要であった。ところが、現在の朝鮮は謝恩使を再現せず通信使のみを再現する。なぜか?それは万年属国だった歴史的事実を隠し、
日本に「先進の文物を伝えた」と主張したいが為であろう。朝鮮通信使再現のニュースに接するたび、恣意的解釈に満ちた彼らの歴史観、常に自分で自分を持ち上げようとする品性の無さ等々悲しい民族の性を哀れと思う。
あ~~ 朝鮮から徳川将軍へのご機嫌伺いですかぁ。おとなしく江戸までくりゃいいものを途中で鶏泥棒やらかして袋叩きにされたっつうアレですな。
 おや?鶏がみえませんねぇ。 しかも白衣の民族のクセに色付きですかぁ。 何考えてるんでしょうねぇ
これは、「朝鮮紀行 英国夫人の見た李朝末期 イザベラ・バード」の中の一文であるが、鶏や卵をかっぱらうのは、両班の当然の権利であり、まさに強奪者以外の何者でもない。

このことから、自国(李氏朝鮮)において、官僚や両班にとって、食い物など「勝手に盗ってよし」は普通のことであり、日本において鶏を盗んだことで、なぜ咎められるのか理解できなかったことが想像される。

「朝鮮紀行」は、日韓併合前後に、朝鮮半島を訪れた、女流紀行家イザベラ・バードが書いた紀行文であるが、一級の歴史資料でもある。

朝鮮通信使の時代とは、年代的には隔たりはあるものの、李氏朝鮮500年の間、ほとんど進化していないことを考えると、イザベラ・バードの「朝鮮紀行」の中に書かれてある事柄や、高級官僚や両班の行動様式などは特に、それほど大きな違いはないと考えられる。

207 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2011/09/13(火) 23:27:58.02 ID:ZLxR5HGl
>>1 【佐賀(毎日新聞)の】佐賀の毎日w天皇を侮辱した朝鮮人か
朝鮮人の証言や主張には、話を面白おかしくしたり自分を優位な立場に置くためか、嘘っぽい話や大げさな物言いをし、まぎらわしい表現を意図的に行うことが間々有ります。
そこで、韓国・朝鮮人論の中から、それに言及しているものを紹介します。
「雨森芳洲」 上垣外憲一 1989年 中公新書
◇新井白石の朝鮮観 (江戸中期の儒学者・政治家 1657~1725) (灰色文字は本文になし)

日本に送られてくる通信使は、日本向けには将軍の襲位祝賀をうたいながら、朝鮮の文献を読んでみると、敵情探索を目的としている。これは恩義を忘れたものである。
大体、朝鮮は信義のない国であって、明が清に攻められた時も一人の援兵も送ろうとしなかったではないか。「夫朝鮮狡黠多詐、利之所在、不顧信義、蓋○狢之俗、天性固然」
(朝鮮人は狡猾でいつわりが多く、利のあるときには信義をかえりみない。狢(むじな=タヌキの異称)の類の風俗は、天性からしてそうなのである 「国書復号経事」)。
白石の通信使待遇格下げの根底には、このように朝鮮を軽侮する心理が働いている。日本の文人たちは、朝鮮のことを礼儀の国などといって持ち上げているが、
歴史に照らしてみれば、かくのごとく信義のなき国である。そうした国の使節をそれほどまでに優遇することはない。こうした論理である


277 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2011/09/14(水) 00:17:44.72 ID:1WWNsybp
>>韓国人の歴史歪曲捏造は余りにも酷く、目に余るものがある。
これが日韓の感情的なもつれの根本的な要因であり、双方に摩擦を生み出す元となっているのだ。
韓国人はよく日本の歴史歪曲を指摘するが、実際は韓国で教えられる歴史こそが、そもそも歪曲と捏造に満ちたものだから話にならないのである。
近代史からの因縁の日韓の歴史の齟齬は「日本は朝鮮の独立を奪ったのか?」という点から始まる。
結論から言うが、奪ったも何も、元々朝鮮は中国歴代王朝の千年属国であり、主権さえ認められていなかった国なのだ。
日本が下関条約の第一条で初めて朝鮮の中国からの独立を明記するまで、千年の長きに渡り朝鮮は、中国の属国となっていた事実を、韓国人達は決して認めたがらない。
今回はその千年属国の真実を示すことで韓国人の歴史認識がいかに歪曲されたものであるかを証明したい。
朝鮮の歴史を紐解くと、初期の高麗朝を除きほぼ全てに渡って中国歴代王朝の属国としての地位に甘んじてきた。
その有様は、事大主義(小国が大国に媚びへつらって生きていく主義)に代表されるように千年属国朝鮮の悲惨な姿を現している。


「朝鮮、属国史」の始まり
918年 高麗建国
10世紀 宋に朝貢、契丹(東胡の末)に朝貢。
12世紀 金(女真族、東胡の末)に朝貢。
13世紀 高麗はモンゴルの属国となる。劣等感から、一然という僧が檀君神話を捏造し、忠烈王がモンゴルに日本侵略を唆す。(コリョ族もモンゴル族も同祖、東胡が匈奴に破れ四散したのは2200年前、ゆえに彼らの歴史も最長2200年)
14世紀 高麗滅亡、李朝建国。李朝は最初から明の冊封国で、国名も中国に決めてもらった。
17世紀 清(女真満州族)に服属、三跪九叩頭の礼に甘んじる。
19世紀 日本が日清戦争で中国を破り、属国の李朝は独立させてもらう。(日本の保護国)
1910年 李完用の要請により日本に併合してもらう。李氏朝鮮(大韓帝国)滅亡。
1948年 戦後アメリカ軍政庁の統治下にあったが、アメリカの後押しで大韓民国が成立。
1950年 アメリカとソ連の代理戦争である朝鮮戦争が起き分断国家となる。
1991年 ようやく国連加盟、史上初めて世界から独立国家として認められる。 
1993年 韓国、軍事独裁制を脱し、史上初めて独立民主政体となる。
現在 いまだ言論、学問の自由もなく民主主義とは程遠い国である。北は論外。


310 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2011/09/14(水) 00:45:38.87 ID:ondDLtmj
■1分でわかる朝鮮通信使の歴史

江戸幕府(徳川)が日本を平定すると、朝鮮は1607年(朝鮮出兵を恐れ)朝貢使として朝鮮通信使を派遣する

幕府は、朝鮮通信使を「朝貢使」として、大名や民衆に見せることで、幕府の権威付けに利用した

幕府は、朝鮮通信使の接待を朝鮮通信使が通過する地域の大名たちに命じる

大名同士は見栄の張り合いから、幕府の想定を遥かに超えた、過剰な接待をする

江戸への旅で、過剰な接待を受け続けた朝鮮通信使の一行は、どんどん傲慢になり、本来の傍若無人な態度をとりはじめる

朝鮮通信使(両班)は、朝鮮の民(白丁)と同じような感覚で日本の民からもモノを奪うようになる(鶏など)

1764年4月6日、対馬藩の通訳、鈴木伝蔵に通信使「崔天宗」が難癖をつけ袋叩きにするも、逆に殺される

当然朝鮮は抗議するが、通信使は特に利用価値もなくなっていたので江戸幕府にシカトされる

以後、朝鮮通信使は江戸まで行けなくなり、1811年に対馬まで行って最後になる




韓流ブームブームブームwwww

朝日新聞に、日経新聞に、変態新聞と来たか。
あとは読売待ちだなwww