『日本のいちばん醜い日』[鬼塚英昭]から: 

 以下のウィキペディア中の東京裁判での被告等の記述中、太字が

満州国を牛耳る男としてはやった言葉「二キ三スケ」の中身。

 鮎川とは日産コンツェルン総帥。

 二キは死刑または終身刑、

 三スケの一人は病死として、のこりの二スケは釈放されている。


 三スケとも大室寅之祐と同じ山口県田布施の一族で親戚関係。


::::マークの下はウィキより抜粋したものです。

なお、保坂正康氏に対しては鬼塚氏は批判的

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連合国軍最高司令官から終戦連絡中央事務局 を通じて日本政府に通達され、本人には連合国軍の中でも最初に東京に駐留を開始したアメリカ軍の第8憲兵司令部への出頭命令という形で伝達され、100名をゆうに超える逮捕者を出した。なお、出頭命令を受ける前に杉山元 912日に自殺している(第二次戦犯指名リストには掲載されていた)。

また、アメリカの植民地 であるフィリピン での行為は、アメリカ軍が管理するマニラ軍事法廷 で裁かれたため、フィリピンで捕虜 にならず帰国していた者は日本で逮捕後、マニラ へ送還された。ドイツ 大使館付警察武官のヨーゼフ・マイジンガー は、前任地のポーランド での行為が罪に問われたため、逮捕後ワルシャワ に送還された。

第一次戦犯指名 [編集 ]

1945911日に逮捕命令(40名)。主に東條内閣 閣僚が逮捕される。 

東條英機 911日に自決 未遂[絞首刑]東郷茂徳 嶋田繁太郎 賀屋興宣

鈴木貞一 岸信介 [なぜか釈放]岩村通世 小泉親彦 913日に自殺)、橋田邦彦 914日に自殺)、井野碩哉 本間雅晴 (マニラの軍事法廷で死刑判決)、黒田重徳 (マニラの軍事法廷で終身刑判決)、村田省蔵 寺島健 長浜彰 (マニラの軍事法廷で死刑判決)、太田清一、上田良武、鈴木薫二、徳田久吉、飛田時雄、長内茂、三浦宗一、竹内寛、ジェームズ・W・佐々木(佐々木薫一)ら

1945921日に逮捕命令(2名) 

土肥原賢二 阿部信行

19451022日に逮捕命令(1名) 

安倍源基

第二次戦犯指名 [編集 ]

19451119日に逮捕命令(11名) 

荒木貞夫 小磯国昭 松岡洋右 [判決前に病死]松井石根 南次郎 白鳥敏夫

本庄繁 1120日に自殺)、鹿子木員信 久原房之助 葛生能久 真崎甚三郎