三木句会ゆかりの仲間たちの会:太田酔子さんの読書感想
2025年9月16日の「おのづからなる姿、よろしき面影」と
題する記事を読んだ時、『華日記』の読書感想がひらめきました。
9月16日の記事は、竹工芸の作家として著名でいらっしゃる藤原
満喜さんの、「いけばな」と俳句にまつわるエッセイでした。
そのタイトル「おのづからなる姿、よろしき面影」は、室町時代に
遡る16世紀前半に華道を大成した池坊専応の「専応口伝」の言葉
でした。
『華日記』は、戦後の日本で古来の文化は滅びるかという危機に、
生け花界には天才や軍師があらわれ、多くの流派が群雄割拠し、
さらに前衛という芸術分野が古来の生け花界の楔となりました。
池坊専応もその昔よほどの戦いを強いられたに違いありません。
文化が活況を呈するときは、その時代もまた激しく揺れている
と思います。
早坂 暁『華日記』―昭和生け花戦国史 新潮社 1989
この作品は、サブタイトルが示す通り、戦争直後から昭和55年に
わたる、生け花界の生死をかけたかなり血生臭い戦国史である。
作中の生け花評論家富田二郎は作者の早坂 暁で、昭和33年まだ
大学院生の彼がアルバイトで生け花新聞の記者となり、その後10年
近くを花の世界と関わる。それは生け花界が前衛生け花を得て活況
を見せていた時期に重なり、評論家として意図的に踏み込んだ働きを
仕掛けようとしている。
筆者が興味を持ったのは、この『華日記』によって過去の記憶が
呼び起こされたからである。おそらく1970年代のある夏、ある雑誌
(残念だが覚えていない)の特集で、中川幸夫の名前と作品を初めて
見た記憶だ。中川幸夫の作品は生け花に対する先入観を強烈に覆す、
途方もないエネルギーを発していて圧倒されたことを忘れていなかった。
中川幸夫は生け花を池坊から始めているが、いわゆる「花型」に
疑問を持ち、郷里の丸亀市で「大家でもない」彼が個展を開くという
「破天荒」をやってのけた。そのうえ、生けている花が常軌を逸して
いた。(p.64)当然池坊は認めず、幸夫の生け花を公の花展に出品
させなくした。幸夫は池坊に脱退届を出すが受理されない。この
『華日記』は、中川幸夫の部分だけをとって読んでも、生け花と芸術
の矛盾を解消するべく戦った、つまり「生け花を純粋に生けるだけで、
人は生きていけないのか」と問い続けた不屈の人間をまるまる見るよう
で感動的である。
流派を持たない幸夫に生徒は来ない、生け花を教えて生活の糧を得る
ことができない。しかし、彼は流派に寄らず、花を生けることだけで
生きようとした。「花の命を生ける」ことにのみ拘った。彼に1人の
理解者がいたことは奇跡と言える。九州の古い流派の家元であったのを、
彼女自身家元制に疑問を抱いて、ついに家元を投げ捨て、幸夫の「戦友」
となった11歳年上の半田唄子である。
2人の生活を語る凄絶なエピソードがある。上京して結婚した2人を
激励する会が渋谷で開かれた。出席者は美術評論家水澤澄夫、生け花
新聞の記者富田二郎など6人であった。夫妻は帰りの電車賃にもことかく
極貧の暮らしで、渋谷から哲学堂まで10キロ近くを木枯しのなか歩く
のである。「歩くために東京へ出てきたみたい」「もう地球を一周して
いるかねえ」。
また、別の時、花屋で見事な椿を見て買ってしまう。食事代の金が椿
に変わった。電車賃を倹約するために歩きながら2人は同じことを考えて
いた。生け花作品だけで生きていくのがこんなに難しいとは思わなかった、
甘かった、と。しかし他の仕事に手を出すことだけはしたくない、と。
それでは唄子を誘って四国から出てきた意味がない。そんな時に出会った
椿の花だった。「この硬い、どんな花の蕾にもない硬い蕾は、中にある
春がどんなに大事なものかを教えてくれている」「この椿の、春への
思いを、こんな色で、こんな形で見せてくれている。それを生けなくて
なんの生け花か」ただ美しい飾りだけの生け花ではない。幸夫の生け花は
「必死に抱きしめている春の、開花寸前のいのちの震え」を形にして見せ
ていた。(pp.187~190)
富田は考える。「中川幸夫は勅使河原蒼風の才能を越えるものを持って
いる。・・・この生け花の天才、中川幸夫がこのまま飢え続けるようなら、
日本の生け花界は最も美しい花を生けることができなかった・・・」事に
なる、と。中川幸夫に生け花の天才を見た富田は、生け花業界紙に中川
幸夫特集を企画する。『生け花作家は成立するのか』という特集記事で
あった。しかし、それが日の目を見ることはなかった。発行寸前に「うち
の新聞をつぶす気か」と社長から中止を命じられたからだ。家元制に触れ
るのはタブーなのである。
この作品は、もう1人の前衛生け花作家勅使河原蒼風の戦いの物語でも
ある。蒼風の華々しい半生は、池坊や安達潮花など伝統古典の生け花界に
対抗するものとして、いわば幸夫は同志であるが境遇は全く違う。蒼風は
100万に近い門弟に支えられ、海外の前衛作家らとともに華々しい「作家」
活動を展開している。彼も流派の家元ではなく、芸術家としてのありよう
を求めたことは幸夫と同じである。
『華日記』の口絵は、蒼風と幸夫の作品を掲げている。最初の写真は
蒼風の「ひまわり」で、前衛生け花の記念碑的作品(1951年の作品)
である。その斬新さは75年の長きを経てなお圧倒的である。枯れひまわり
の黒々とした頭状花に君子蘭の生花を配した造形であり、枯れたひまわり
の命が生けられている。死から命が立ちあがっている。
口絵の最後の写真は、幸夫の「花坊主」(カーネーション900本、
1973年の作品)で、衝撃的な作品である。花の命の一部始終、生から死
までを見届けた末の作品に違いない。花が血を流している。これは到底
床の間に飾れるものではない。刺激が強すぎて心を騒がせる。唄子は、
蒼風の「ひまわり」に負けない生け花をつくれるのは幸夫だけだと、
その才能を見抜く炯眼を持っていた。
蒼風と幸夫の他に、池坊、安達式挿花らがしのぎを削る活力のみなぎる
時代であった。巨大組織の池坊のこの時代は、参謀格の山本忠男の、いわば
暗躍が格闘技を見るように凄まじい。池坊専永が幼くして父である家元を
亡くしたための空白を山本忠男が埋めなければならなかったためではあった。
さらに、勅使河原霞と安達瞳子、2人とも父蒼風と安達潮花の掌中の珠
として育ち、宿命的にマスメディアの寵児となった。そして池坊専永の妻
保子。彼女自身は花を生けないが、生け花界に生きなければならない。
この3人の女性たちが、それぞれの反乱を生きるのであるが、その物語も
三人三様まるでフィクションのように面白い。
photo: y. asuka
美しかっただけではわからない、どの花も美しいのです 中川幸夫
(中川幸夫著 『君は歩いていくらん 中川幸夫狂伝』より)
