三木句会ゆかりの仲間たちの会:太田酔子さんの句集鑑賞
月野ぽぽな『人のかたち』(左右社、2024年)を読む
タイトル『人のかたち』は、「あとがき」によると2017年に角川俳句賞
を受賞した50句の中の まだ人のかたちで桜見ています からである。
「かたちはなくとも桜に集う、父母、義父母、兜太先生をはじめ、愛しい存在達
への挨拶句です」と記してある。
山本健吉氏によると「俳句は滑稽なり。俳句は挨拶なり。俳句は即興なり」
だそうである。挨拶句の中には慶弔贈答の句もあり、例えば飯田蛇笏が「芥川
龍之介氏の長逝を深悼す」と前書きした俳句が思い出される。
たましひのたとへば秋のほたる哉 蛇笏
ぽぽな氏の上記の俳句もたましいたちとの交感の俳句である。たましいたち
との間には手を伸ばしても触れえない深い隔たりが強く意識されるが、その
意識が桜を介することによって感応し合えるようになり淡い慰めに向かう。
桜に慰和を託した佳句だと思う。
『人のかたち』は7章からなり編年体に328句を収録してある。現代俳句
協会の機関誌『現代俳句』誌上の「現代俳句の風」のコーナーで、アメリカ
在住の、覚えやすい俳名月野ぽぽなを、2017年以降(筆者が『現代俳句』を
購読するようになって以来)定期的に見かけていた。そして手にしたこの
句集である。
全体的な印象は一言で言えば淡く柔らかく、それは本の装丁によく表れて
いる。感性の柔軟さによって捉えられた皮膚感覚に特徴があると言っても
いいだろう。
感情に皮膚ある夕べ花あざみ(I章)
例えば上の句は、一読理性的に感じる。つまり感情を理性的に捉えようと
しているのではないかと思われるからである。感情に皮膚があれば、いわゆる
皮膚感覚によって春の夕べの冷ややかさや、まだ残っている暖かさや、花あざみ
に触れた時の痛さなど豊かに感じるはずというような。しかし、この句を理性的
とは多くの人は感じないだろう。「感情に皮膚ある夕べ」と感じたのは理性では
なく感性だからである。ただし、少なくとも「花あざみ」には皮膚があるよう
に思う。その皮膚は自己防衛の皮膚である。感情の皮膚も自己防衛の皮膚なの
ではないか、そこで季語とそれ以外の措辞との心地よい合体が生まれることに
なる。
このようにぽぽな氏の俳句には、理性的と思わせて実は感覚的な句が多い。
それは、~は、~という、~のように、を使用した俳句がとりわけ目につく
からかもしれない。物事を規定しようという意思を感じさせるのである。I章
からIV章までの、作句が時期的に早いところにそれは断然多い。2017年から
2023年に作られた俳句にはこの手のものは少ない。
街灯は待針街がずれぬよう(I)
陽炎はとてもやわらかい鎖(II)
恍惚の一片としてなめくじり(II)
春燈のようにホルンの音ひとつ(II)
うつぶせは沼の淋しさ夕薄暑(III)
あまり意図的ではなく拾いだしてみた。もちろんこの作句方法に「比喩」
の働きを見ることもできる。
街灯を待針と規定する。待針は布のずれを防ぐのがその働きで、それを街
に当てはめたのがなかなかの思いつきであるし、布地に打った待針の色
とりどりの丸い頭が懐かしい絵として浮かんでくる。しかし「街がずれる」
というのは単に思いつきではなく、機械的に整備された街区に暮らす違和感
が最短の言葉で把握され表現されているものであろう。理性的な感性と感じ
る所以はここにある。
陽炎を鎖と規定するのも、ホルンの音を春燈と感じるのも、感性の特質で
ある。つかみどころのない陽炎に物を縛り自由を奪う鎖を連想し、とりとめ
のないようなホルンの音を滲む春の燈と規定する。前者の相反する特質の
ぶつかり合いに対して、後者は色に音を聞いている共感覚の句であるが、
春燈の色とホルンの音には親和性がある。
恍惚の一片としてなめくじり
ひどくかけ離れた遠い二者をぶつけるのは現代詩の特徴だと思うが、現代
俳句にもよくある方法だという気がする。<恍惚>のテーゼとしてなめくじ
が置かれているのか、それともアンチテーゼなのか、一片というのだから
<恍惚>という命題の一部ということであろう。あの異形のなめくじが
<恍惚>の一部だという言い切りになったのは想像を超える。そこで考えた。
なめくじは個体としての存在を見なくても、移動した跡が銀色に光っていて
存在を確信できる。<恍惚>とは脳に銀色の光をまだらに一片、二片と刻印
するような感覚だと捉えているのではなかろうか。そう考えれば想像は手の
届く範囲にある。
うつぶせは沼の淋しさ夕薄暑
係助詞の「は」には文法的には多くの働きがある。「うつぶせ」という体位は、
仰向けや直立とは違うことを明らかにして、叙述を強めたり叙述の範囲を提示
したりしていると読むことができる。うつぶせと言う体位は何かを隠す意図
があったり、ひいては秘密の匂いがしたりもする。従って、人の来ない森の奥
の草に覆われた沼を連想するのは不思議でないばかりでなく、どこか淡い性的
な色合いを発して夕薄暑にうまく着地している。
2017年以降のV章から最終章まで
母の日の晴れ間へと母さそいだす(V)
夏の月ひとつ狂想曲ひとつ(V)
カンナの緋プロメテウスが盗んだ火(V)
あきらめのあかるさ昼顔の真昼(VI)
上記句をはじめとして同音・同語反復、同音異語の句が多く、また、頭韻
も多く使っている。それがリズムの軽快さ、意味の重層化に繋がっていて
心地よい。自分の作句方法を手にした後の自在さを感じさせる句が並んでいる。
もうひとつ、この時期の特徴と思われるが、哀悼句に佳句が多い。大切な人
を失ったときひとは文学に向かうからである。
天に星地に梅ともし兜太逝く(VI)
はつなつの上澄みとして母眠る(VI)
いつか土に還りて春の月浴びる(VI)
母の死を灯して春の闇ゆたか(VII)
母を地に還し椿の蕊そろう(VII)
三句目は、死者のことではない。作者が死者にまみえる姿である。動物も
植物もすべからく土に還っていく。そのとき、その土の上には春の月の
ひかりが水のように湛えられている。死をこんなに優しく柔らかく歌うのは
作者の感性の柔らかさであろうが、還っていくところは土でもあるし宙でも
虚空でもある。
身体も意識も現世にいながらそこを超える感覚を体験する場合がある。
まるで肉体が透明になるような感覚で、稀有な死生観を得る。そのような
一瞬はいかに捉えられるだろうか。
白湯のんで体すみずみ月あかり(VII)
この句はその一瞬を思いどおりに捉え得た一句で、痛いような透明感がある。
雪、月(あるいは星・宇宙)と花(桜ばかりでなく植物一般)を詠んで、その
感性を十分に発揮している句集である。
photo: y. asuka
母を地に還し椿の蕊そろう 月野ぽぽな
