投稿エッセイ | sanmokukukai2020のブログ

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   投稿エッセイ

 

     長谷川櫂句集『太陽の門』から      聖木翔人(すずき しょうじん)

 

     地球こそ戦の星や秋に入る

     福島をかの日見捨てき雪は雪

     被曝して渚さすらふ雪女

     一億の案山子となつて戦ひき

     熱風や眼ひらけば全身火

     焼けただれ神よこたはる夏の草

     子の髑髏母の髑髏と草茂る

     草むらの蜥蜴となりて生き延びつ

     戦争のあとも戦争大夏木

     赤黒き塊が赤子雪降り降れ

     地球よりはるかに古き月氷る

     死の種子の一つほぐるる朝寝かな

     さまざまの月みてきしがけふの月

 

    これを神野紗希という俳人が「叙事詩でも叙景詩でもなく、共同体の意識を集約

   した叙事詩としての俳句の可能性が拓かれている」などと称賛している。

    そうなのかね?と私は首を、つよくかしげる。これすべて「評論家俳句」ではな

   いのか。おまえは一体どこに立っているのか。その眼前に何を見ているのか。めぐ

   る回想の中に立つのも、遠くの心情を思いやるのも結構、胸中を吐露するのも悪い

   ことではない。だが、なぜ、これらの句の言葉が軽く浮いて浮いて、散らばって行

   くのか。肉体に、生の感覚に響いてこないのか。おまえはどこに立っているのかと、

   つよく問いたくなる。

    傍観の評論家ならば、こんな言葉はいつでも、いかようにも紡ぐことができる。

   しかしいやしくも「詩」を詠む人間ならば自らの、その視覚、嗅覚、触覚などの五

   感の感覚を全力で動員し、その言葉を吐いた途端に、言葉に、その手触り、その皮

   膚感覚、胸に迫るなにか、生々しいものが宿り、それが相手にも届くものではある

   まいか。

    それが綺麗に、ここにはない。綺麗事が並ぶ。一体何を言いたいのか、伝

   えたいのか、平板な頭で組み立てられた十七文字の「理屈」しか、私には見えてこ

   ない。これが「俳句の可能性」なら、そんな可能性は消えてなくなればよい。

    情感を抑制し、たんたんと叙述することが「叙事詩」ではあるまい。情であろう

   と事であろうと肝心なのは「詩」であることだ。肉声だ、感情を揺さぶる言葉だ、

   少なくとも皮膚に触れてくる言葉だ。ひろく「時代の肉声」だ。感情の共感を喚起

   することだ。これらの俳句に、それがあるのか。ごもっともですという以上の感想

   が浮かぶわけがない。

    俳句とは、つまり、一緒に風景を見ているのだ。「ほら見て、この風景を。僕に

   はこうみえ、こうかんじられるんだよ。君ならどうだろう。君の感覚をきかせてく

   れないか」という対話で成り立つものではないのか。少なくとも、自然物以外の

   「政治と社会の風景」も、対話がなりたつことが俳句であることの最低限の条件で

   はあるまいか。

    難しい「俳論」は実は邪魔になってもあまり実作の役にはたたないばかりか、俳

   句を壊しかねないと私は考えている。長谷川櫂が陥っている問題はここに関わる。

   いわば典型的な「評論家俳句」「想念俳句」であって、その「鑑賞」は不可能なの

   だ。

    実はこうして、好意的に見ている彼だからこそ、言いたいのであって、実は私自

   身がいま直面する問題でもあるのだ。ひと事ではない、そこに私は停滞して久しい。

   時代を覆う「コロナ禍」が詠めない。だからこそ、くどく言うのである。神野の鑑

   賞は奇妙な鑑賞である。かばいあい、作家の「苦悩」の深淵を見ようとしない鑑賞

   の典型である。

 

   聖木翔人(すずき しょうじん)

   「白」のお仲間で、いまは「浜風句会」に参加していらっしゃいます。「俳句」は70歳を過ぎて

   から始めたそうです。これまで「白」に句評なども書いておられました。京橋での、また藤沢での

   三木句会にも1、2度出席してくださいました。現在、旧浦和市にお住いです。

 

 

                                                                                   Ⓒsumio kawakami

             夏みかん酢つぱしいまさら純潔など    鈴木しづ子