有馬英子その生い立ちと俳句
第2章
浅井の家は祖母と叔母の2人きりになり、細々と麹屋と醤油と味噌の小売りを
やっていました。部屋数もありましたので、有馬の4人がそちらに移ることになっ
たのです。その頃の父は書店勤めに変わっていました。
冬には麹を造り、朝早くから父も母も「えいこ~、やるぞ~」と言って起こして
くれ、私は麹造りに参加するかのように、わくわくしたものです。大きな桶でお米
を蒸したものを、土間に敷いた筵に開けてから麹菌を混ぜるのです。その時の匂い
は独特で書き表せません。その後、それを室に入れて仕上げますが、それは祖母の
仕事で、私は入ったことがありません。室の中は酸素不足になるらしく、祖母は時
折ふらふらになって出てくることがあり、「おばばがふらふらや~」と私が叫んだ
こともありました。
冬の仕事で覚えているのは、雪のことです。2階に住んでいたので、屋根の雪を
下ろす時期を定めるのも大事なことでした。天井の軋みや襖の開け閉めで、「もう
そろそろやな。」と相談しておりました。町中が揃って雪下ろし。それも私はわく
わくして見ており、終わってからの饅頭が楽しみでした。(ずっと後のことですが、
昭和38年の豪雪で2階から出入りをしました) 近所の子供も遊びに来てくれまし
たが、外でする遊びには参加できず、好きな紙芝居もなかなか行けませんでした。
もっぱらお客さんや近所のおばさん方の世間話、噂話などを聞いていました。どこ
そこの息子が何もしないで困っとるとか、あっちの娘は出戻ったとか、良い話はあ
まり覚えていません。
金沢と言えば城下町で、しっとりしたイメージがあるかもしれませんが、それは
全く違います。東京でいう下町の方だったので、言葉はとても荒かったです。斜め
向かいは表具屋さんで、普段は何をしているかは判らないのですが、夫婦喧嘩は凄
まじいもので、道路に出てきて大声でやり合うのです。それはそれは恐ろしいもの。
でも次の日は何もなかったようになり、私もすぐ馴れました。
家は小立野台地の上に建っており、裏は崖で田圃が広がっていました。そして、
ずっと向こうに寺町台地があり、夕陽が沈んでゆく、それを見るのが大好きでした。
崖の下には清水が湧いていて、近くに青い花を見つけて喜びました。その名は露草、
初めて覚えた花の名です。夏は蚊帳の中に蛍が入ってきました。
父が本をいろいろ買ってきてくれましたので、文字は早めに覚えました。時には、
書店の書庫に連れて行ってくれ、「好きな本をそぉっと見ていいぞ」と言われまし
た。私は本に囲まれているだけで、夢の国にいるようで、とても幸せな気持ちになっ
たのを覚えています。
そんな中に、句をやさしく簡単に書いた本があり、加賀千代女の「朝顔に釣瓶と
られてもらひ水」を見つけ、同じ石川県の女性がいたことを知りました。祖母が私
の指を折りながら、「あさがおに…」と。大袈裟に言えば、これが俳句に導く種火
となったように思います。こ・ん・に・ち・は、お・か・あ・さ・ん、と、指を折
りながら、5・7・5のリズムをなんかいいなと感じながら…。
小学校1年生の年齢になっても歩けなかったので、修学猶予になり、入学は叶い
ませんでした。 <6月号に続く>
深山蓮華 photo: y.asuka