このブログの更新は4年振りです。 4年間に訪れてくれた方々に御礼申し上げます。
さて今回の諏訪の神の趣旨は、諏訪の守屋山の推察です。
述べたいことから書けば、守屋山を祭る祠があり、出雲から来た一群が、タケミナカタが入る社(やしろ)に変え、その後大和の勢力が来て下社も作り今の諏訪大社になったのであろう。
ここではまず信濃・諏訪・伊那が如何なる状態であったか、守屋の序論まで記します。
話の前に2021年8月21日NHKのブラタモリで、「諏訪~なぜ人は諏訪を目指すのか」を放映していました。
答えは透明な黒曜石採取と縄文海進であるとな。
歴史から見てみると。
縄文時代の石器・土器の中に石棒がある。発見される石器の中では特異な形、大きさで目立つものです。勿論諏訪のみならず、北陸圏と東日本で多く発見されている。
出典:岐阜県 上岩野遺跡石棒 https://www.pref.gifu.lg.jp/page/3000.html
石棒は、有頭石棒・無頭石棒に分けられる。これらはすりこぎの如く何かをすり潰したものとは違い、先端に形状がみられるものである。 有頭は男性器をかたどっておりカリ部が有るものもある。 余談ですが北陸圏や関東の有頭石棒では亀頭部に玉抱き三叉文(たまだきさんさもん、下記参照)があり、男性器と女性器を共に表したものです。これらの多くは扇状地から出おり、定住した集落と見られ繁殖を願っていると考えられる。
解りにくいので下記に玉抱き三叉文を記す。
玉抱三叉文は丸い穴と三叉文(各辺が内側に向かって湾曲している三角形)がセットになっている装飾です。三叉文が玉を抱き込んでいるように見える。
わかりやすい例として尖石遺跡の土器があります。土器の口部分の蛇体の下に丸い穴と三叉文が並んでいます。
玉抱三叉文は子どもが生まれてくる穴の部分と、接している襞(ひだ)の部分を抽象化し、女性器と同時に「女性」や「出産」や出産を終えた女性である「母親」を表すマークのような記号として使われていたと考えています。
この石棒がミシャグジですね。
縄文時代、ミシャグジ、蛇神、巨木を祭る独自の文化圏があった。
弥生に近くなると、天竜川・木曽川から弥生文明が入ってくる。
これは遺跡の土器から判明しているので記載しません(長野県史1982年長野県史刊行会)
時代は変わり、大和政権が信濃を重視したのは馬である。
延喜式には、佐馬寮・右馬寮が管理する御牧(いわゆる牧場)は、
甲斐3牧・武蔵4牧・信濃16牧。
日本書紀天武天皇即位前記に、壬申の乱東山の軍を発せしむ
また、釈日本記には、「私記曰、案安斗智徳日記云、令発信濃兵」
大海人皇子が東国尾張美濃あたりから巻き返すのは、馬を駆使した騎兵であったと思われる。
その後も天武天皇は信濃にひとかたならぬ意識があった。
日本書紀天武記では複都制詔が出て、畿内と信濃の調査をしている。 今では考えられないが信濃は都の候補になるくらい重要であった。かつ天武天皇自身のこだわり。
伊那(守屋山は伊那地区です)ですがこの場所に物部氏が関与する記述が日本書紀雄略天皇十八年秋八月己亥朔戊申にあります。
「遣物部菟代宿禰・物部目連、以伐伊勢朝日郎」 「天皇聞之怒、輙奪菟代宿禰所有猪名部、賜物部目連」
両物部を伊勢の朝日郎を討ちに行かせた。 討ったのは物部目連で、だらしない菟代宿禰の所有の猪名部を物部目連に与えた。この猪名部は伊那部である。
日本書紀雄略天皇十八年の記載
「十八年秋八月己亥朔戊申、遣物部菟代宿禰・物部目連、以伐伊勢朝日郎。朝日郎、聞官軍至、卽逆戰於伊賀靑墓、自矜能射、謂官軍曰「朝日郎手、誰人可中也。」其所發箭、穿二重甲、官軍皆懼。菟代宿禰、不敢進擊、相持二日一夜。於是、物部目連、自執大刀、使筑紫聞物部大斧手、執楯叱於軍中、倶進。朝日郎、乃遙見而射穿大斧手楯二重甲、幷入身肉一寸。大斧手、以楯翳物部目連、目連卽獲朝日郎斬之。
由是、菟代宿禰、羞愧不克、七日不服命。天皇問侍臣曰「菟代宿禰、何不服命。」爰有讚岐田蟲別、進而奏曰「菟代宿禰怯也、二日一夜之間、不能擒執朝日郎。而物部目連、率筑紫聞物部大斧手、獲斬朝日郎矣。」天皇聞之怒、輙奪菟代宿禰所有猪名部、賜物部目連。」
物部氏諏訪に登場。 では守屋山2へと続きます。