十四万四方の神々

十四万四方の神々

仏教に神道と道教とバラモンが入り交ざった
日本をわかり易くしたい

 まず、須佐之男命についての記載を行うことの遅れの弁明です。

実家親の体調不良の介護と私の調べ不足に起因しています。

申し訳ないです。

 

 さて、表題ですが高度成長時の体育会系は宝塚歌劇団、日本大学と自民党記載漏れが

表していますのでここでは詳しく述べません。

 

 主題は、「周りを見て隷属すること」です。

これは重要なことです、考え判断するか否かの重大な岐路なのです。

言い換えると意見持ち行動する市民か、ただ愚痴をいう奴隷かとの差が有ります。

残念ながら、令和六年元日石川を中心とする地震が(16時24分震度7より)起こりました。

 全てのTV局はこの災害放映をしています。

 最初の2時間は各社ほぼ同じ内容で、放送局変えても同じです。

 放送には公共性が求められているので当然でしょう。

どの局が最初に元の放映に戻るのかをジャニーズ性被害と松本人志文春砲を鑑みて見ています。

勿論NHKは除外です、災害報道のNHKは使命なので。

一番最初に元の番組に戻したのはTV大阪(TV東京系、関西帰省中なので)です。

19時辺りでした。 21時になり通常に戻したのはTV朝日系とTBS系です。

最初の判断が市民です。他は自主性のない周りを見て判断する奴隷です。

(言葉に反応しないでください、奴隷は言いえて妙な比喩です)

 

 昭和の戦後以降日本人は主体を失いました。その前にも有ったかは疑問ですが、

誰が始めたのか、周りを見て、同じにするのことが処世術になっています。

 

 以前このブログに何故子供が元気ない挨拶をするのか記載しています。

表題「何故昭和生まれはマナーが悪いのか 何故会話できないのか」

  回りに合わせていれば、失礼にはならない、問題にはならない。
  正しいと考えることよりも回りが優先するのです。
  そして会話出来ないしない人になる。
  ひいては正しいことが言えない人になる。

 

私はこれを奴隷指向型と呼んでいます。

たかがTVの放映でしょとは言えません。

日本で事象が起こると、海外ではどの様に報道されているかニュースにします。

この様なニュースを流すのは全世界で日本だけです。

 

 そのTVの報道(ニュースショーではなく)等で人は判断しています。

令和六年正月、ジャニーズ性被害・宝塚歌劇団・松本人志文春砲が出ても正面から報道と判断するTV・新聞は無いといえるでしょう。

 この様な報道機関と決別しましょう、見ない、買わないです。

 

最も重要なのは自己で考え行動できるかです、多分我々は出来ないでしょう。

そして今の日本人は滅んでいくのです。 特異な超絶技巧と歴史を残して。

 

 

 

 

 

 

 

 

須佐之男命について書きたくなり出雲に行きました。

 

まずは須佐神社

 

続いて須我神社

 

3番目は出雲大社奥の東山山中の韓竈神社(昇降厳しく、切り通しは45xm幅)

 

最後は杵築大社(出雲大社)内で一番上に立つ素鵞社です

 

少ない参拝ですが 、須佐之男命について来月までに記したいです。

写真は20216月の守屋神社奥宮です。

この奥宮の横30m位南西に山頂があります、とは言えほんの2-3m高いだけです。

山頂にも場所がありますので、その横に奥宮を置いた意味は磐座があるかと思いましたが

大きな磐座の奥2m位に石の祠をおいています。

 

下記は山頂から見た諏訪湖です。

 

山下の神社に居る時は丁度雨が上がり登り始め2時間後に急激な雨が降り始め、

急いで山を下りました。 レインコートが無ければ低体温症に為っていたかも。

 

さて、諏訪大社の配置をみてみよう。

諏訪大社前宮本殿拝殿は南南西方向を背としている、即ちほぼ守屋山山頂を拝む形になる。

上社本宮は本殿が無く(下社の春社・秋社も同じ)拝殿の向きは北西、後ろを南東とする。

守屋山ではなく前社か富士山を拝する方向にしている。

 しかし、四本の御柱(一から四之御柱、二之御柱のみ少し離れている)の置き方を前社と同じように考えれば御柱が囲む四辺の先には守屋山がある。また拝殿前横に仰ぎ見る硯石がある、この石はどの様に考えても祭壇であるとしか考えられない。これを見るに今の拝殿からは90度右側に回らなければならない。 この硯石を仰ぎ見ると守屋山方向である。

 

下記は上社本宮拝殿前から硯石(上部の苔むした岩)と守屋山を見る

祈祷後神官の許可済み写真)

 

下社春社は拝殿も御柱の立ち方も南を向いており守屋山を背とせず向き合う方位である。下社秋社は南西を向いておりその先には大和奈良がある。

  しかし、下社は上社の後に出来ており、また上社と下社は明治まで祭事は別々に行われていた。 諏訪大社の上社下社は別物であった。

 

 前宮には本殿があるのは、守屋山の神をここに納めていたのでは、タケミナカタに代わるときに守屋山に移し前宮にタケミナカタが入る。 しかし、前の威光が強く皆が参拝するので上社本宮を創建する。

 

時代変遷で考えれば、守屋山を祭る祠があり、出雲から来た一群が、タケミナカタが入る社(やしろ)に変え、その後大和の勢力が来て下社も作り今の諏訪大社になったのであろう。