算命学ではよく

「自然界」と「人間界」という言葉が出て来ます。

 

私が最初に「自然界」「人間界」という言葉を意識したのは

気図法と八門法を習った時でした。

 

 

気図法が「自然界」を表わし、

八門法が「人間界」を表わしています。

 

 

こちらが気図法↓

 

こちらが八門法↓

 

 

 

 

気図法や八門法については

以前も雑感を書いたことがあるのですが

 

 

今はまた、ちょっと違う角度というか視点で

ふと思ったことがあったので

書いてみようかと思いました。

 

自然界を表わしたのが気図法で、

人間界を表わしたのが八門法

 

と言われても・・・

 

感覚的には何となく分るようで

バシッと言葉で説明するのが難しい真顔

 

と思っていたのですが

いや、今もそうだけど・・・

 

理と情、

客観と主観、

メタ認知と自己認知

 

みたいな対比と同じような感じかな~と思って。

 

前者が「自然界」で

後者が「人間界」

 

つまり

理・客観・メタ認知が「自然界」

情・主観・自己認知が「人間界」

・・・みたいな??

 

算命学の基本的な考え方は

陰と陽があって1つ、という

いつでも一極二元の考えがベースにあるので

 

今までは、

”自然界の気図法ではこう考える”

”人間界の八門法ではこう考える”

 

といったことを

あまり一極二元を意識せず

バラバラに考えていたのですが

 

例えば

陰占を学ぶときは陰占について学ぶし、

陽占について学ぶときは陽占について学ぶ

というように

最初に学ぶときは別々に学ぶけれど

 

どちらも学んだ後は

陰占と陽占の両方を使って

統合して考えたりするのと同様に

 

気図法や八門法も

学ぶ時は別々に理解するけれど、

どちらも同等で

どちらかだけで考えるのではなく

どちらもあって1つ

 

という考え方が必要なのかな??

 

なんてことを、ふと思ったのでした。

 

人間界は「情」っぽさ満載なので

私なんかは八門法の親子関係のほうが

気持ち的には分るけれど、

 

自然界の「理」とか

自分を客観視したりメタ認知的に置いてみると

気図法の言わんとすることも理解出来る

 

みたいな感じ・・・

伝わるかな~💦

 

 

私なんかは、どれだけ年を取っても

八門法でいう、親子の上から下へと生じる矢印のように

親が子供を助ける、という意識が強いけれど

自分が実際おばーちゃんになったら分らんが、少なくとも今はそう

 

理的、客観的な自然界としては

気図法のように、生じようが剋しようが

子から親へ向う矢印の流れになっていて

 

私のように”女性らしい情的なタイプ?”だと

自分で自分のことを

そう思っているあたり主観ばりばりね

 

気図法の流れは、理屈は分るが

感覚としては腑に落ちない真顔

ってところもあるのですが、

 

 

一極二元でいえば

どちらかだけというのは偏りなので、

自然界(気図法)も人間界(八門法)も

両方がバランスよく必要なのでしょう。。。

 

なので最近は、

情的には八門法の方が分る~って思うし

人間界では八門法的な行動をしがちだけど、

 

一方で

理的には気図法の考え方を理解して、

そういった思想というのをメタ認知のように客観的に取り入れよう

 

なんてことを思っています。

 

 

長くなりましたが・・・

なんで急にそんなことを思ったかと言うと

 

私は、いくつになっても子供を助ける

という感覚だったのですが

 

夫が、次男も病気とはいえ

もう大学を卒業しているし成人だし、

 

長男については社会人として自活しているわけだし

 

どちらも子供とはいえ

人間としては大人なわけで、

自分達親が、我が子に助けてもらうことだって

時にはあるんじゃないの真顔

 

ということを言ったんですよ。

 

それで、私としては

あ~、夫の考えって気図法っぽいなー

でもって、私の考えって八門法的だなー

 

それでこそ?

男であり父親(理)と

女であり母親(情)真顔

 

なんて、変に納得したので書いてみました。