仏壇を処分した。
そして墓じまいをした。
それから初めて彼岸。
ワタクシ事ですが、
買い替えとかでなく、仏壇を処分するのは2回目です。
1回目は10数年前、今回と同じ故人。
諸事情あって、
平成2年故人となってから2か所の墓と仏壇で供養されていた。
分骨されて遠方のとあるお墓に埋葬されていた遺骨は、
骨壺に入っていなかったので取り出すことは出来なかったが、
魂ぬきをした。
悪い事でもネガティブな事でもない事は承知していたけれど、
当時も今も分骨する意味は解らなかったし、
残された者のよりどころや支え、励みにならない分骨って・・・
私には何年たっても、
これからだってたぶんずっと、理解は出来ないし、
理解したくないとも思います。
今年あえて花粉のストレスフルな時期に、
でも意外とかろやかにこの事に取り組んでおりました~ w
墓に限らず、いろいろ背負うものや想いがあると、
何だか縛られて囚われて身動き取れなくて、
息苦しいような気もするし、
それから解放されたくて仕方がなかったけど、
でもそれが生きてく事なんだろうなと・・・
抵抗はなくなった。
背負う事で責任感を自覚したり、
モチベーションになったりもするものだよね。
なんて言っときながら、
私は精神的にも物理的にもいろいろガンガン手放す事を
選択したんだけれど。
今はね、背負う事がよくないとは思わなくなった。
だから、
背負ってるのか、いないのか、
重いのか、軽いのかもわからないものとか、
手放したり処分出来るんだなと思う。
荷物の中身、がっつり目を凝らし
確認することも必要だったんだなって今更ながら思ったわ。
どんどん手放していったら、
私の背負ってる荷物なんてそもそもスカスカかもだな、
とか思うこの頃。すごくかろやかな感じになってきた。
もともとそうだったのかもと。
ありもしなかった荷物を勝手に重ねて
勝手に自分で重々しく仰々しく背負ってたのかもってねー。
そしたら、、、
自らすすんで、
自覚して背負うって事はいいんじゃないかと思ったりしました。
自分にとって本当に必要なものが、スッキリした後わかる気がします。
終活は終盤に入っております。
墓じまいを終えて、
生きているものの自己満足、とまでは言わないが、
生きている者の為の作業とゆうか
どう弔い悼むのかは、
残された者の生そのものだなと思ったな。
それと、
自分の死生観みたいなものがみえた気がします。
私の唯一の理解者だった人を平成の間に
永遠に朽ちることなく、濁り澱むことのない
静かで穏やかなどこまでも深く底の無い場所へ。。。そっと。
今生きてる私の意志。
そのことはきちんと自覚して背負おうと思う。

