産経新聞を応援する会

産経新聞を応援する会

庶民万民を宝とされ「おほみたから」と呼ばれた皇室は日本のみ 陛下のもとに全ての国民は対等 法の下に対等です 人権は尊重されて当然ですが利権ではありません 産経新聞の応援を通して日本を普通の国にしよう

今回の選挙は、既存の枠に取り込まれていなかった、18歳から39歳までの投票活動で決まる気がする。

ウクライナ侵攻以来「自分の国は自分で守る」しかないと痛感した彼ら。安全保障の現場に立つことなく空論をぶつけ合っていた私たちお花畑世代とは違う発想で今と将来をどうすればいいのか必死に考えているのが見えてくる。

・・有権者のうち、18歳から39歳までの総数は、直近の人口推計や選挙データに基づくと約2,400万人、全有権者に占める割合は約23〜24%。総務省の人口推計(2024年10月1日現在)などのデータを基にした、年齢区分別の内訳は以下の通り。

年齢層別の有権者数(推計)

18〜19歳: 約210万人(約2.0%)20〜29歳: 約1,010万人(約9.8%)

30〜39歳: 約1,180万人(約11.4%)

18〜39歳合計: 約2,400万人(約23.2%)

全体の割合: 日本の全有権者(約1億350万人)の約4分の1弱をこの世代が占めています。

組織票との比較:

公明党の得票(約520万〜600万票)は、18〜39歳の有権者総数の約4分の1に相当する規模です。連合のコアな集票力(約200万〜300万票)は、同世代の約1割強に相当します。

若年層から現役世代の中核を含むこの層(18〜39歳)は、数としては巨大なボリュームを持っているが、高齢層に比べて投票率が低い傾向にあるため、実際の選挙結果における影響力(投票者数ベースのシェア)は、有権者数ベースの割合よりも低くなるのが今までの選挙。しかし、彼らが彼らの本心を投票という形で示せば日本の選挙の在り方そのものが変わる。

開票前の予想結果などどうでもいい。責任を取ることはない予想屋の話。平井氏の分析は競馬の予想屋のようでまともか。

 

 

 

所得再分配の機能低下と新自由主義の構造的問題に関する一考察
現代社会における所得格差の拡大は、経済的・社会的安定を脅かす深刻な問題である。格差の程度を示すジニ係数の分析によれば、日本では税による格差縮小効果が4.8%にとどまる一方、社会保障による改善度は30.1%と大きく、再分配の中心が税ではなく社会保障にあることが明らかである。とりわけ医療や年金などの現物給付は、低所得層の生活を直接的に支えることで格差是正に寄与してきた。しかし、人口高齢化の進展により制度の持続可能性は限界に近づきつつあり、負担構造の見直しが避けられない状況にある。
本来、戦後の経済秩序はケインズ経済学が重視した「所得の再循環」を基盤としていた。賃金上昇と雇用の安定が需要を支え、再分配機能が経済成長と社会的安定を同時に実現していた。しかし1980年代以降、新自由主義が急速に浸透し、政府の役割縮小、規制緩和、市場競争の絶対視が政策の中心となった。新自由主義は国民経済の安定よりも企業利益の最大化を優先し、社会保障や労働保護を「非効率」とみなして切り捨ててきた。その結果、所得再分配の仕組みは弱体化し、格差拡大を抑える力は大きく損なわれた。
さらに、新自由主義は本来経済学の中心ではなかったマーケティングや経営学と結びつき、企業の競争戦略を社会全体の原理として押し広げた。経済政策が「経営学化」し、国民経済より企業効率を優先する構造が定着したことで、富の集中は加速し、格差は構造的に固定化された。
こうした状況に対し、近年では「新自由主義の見直し」や「積極財政への転換」を掲げる政治的議論もみられる。今回の総選挙においても、ある政権が「積極財政」を公約として掲げているが、一部の論者はこれを新自由主義がもたらした構造的問題を是正する試みとして位置づけられるのではないかと指摘する。すなわち、財政支出を通じて需要を下支えし、再分配機能を強化する方向性は、ケインズ的政策への回帰として理解できる可能性がある。
フランスの思想家ジャック・アタリは、技術革新が富を一部に集中させ、極端な格差が独裁的リーダーの台頭を招く危険性を指摘する。スペイン風邪後の歴史を踏まえ、アタリはコロナ後の世界でも同様の兆候が見られると警鐘を鳴らす。富の独占が社会の不満を激化させ、暴力の容認やポピュリズムの拡大につながるという分析は、今日の政治情勢と深く響き合う。
以上を踏まえると、所得再分配は単なる経済政策ではなく、民主主義を維持するための基盤である。新自由主義がもたらした構造的問題をどう是正するか、そして積極財政がその解決策となり得るのかが、今後の日本社会にとって重要な問いとなる。

今こそ宗教法人のAI導入に関する法的規制を整備すべき理由
――国内法・国際枠組み・SNS環境を踏まえた総合的検討――**
はじめに
人工知能(AI)の急速な発展は、宗教法人の活動にも大きな影響を及ぼしつつあります。AIは経典の解説、信者の相談対応、教義の整理など、多様な領域で宗教活動を補助し得る技術であり、その導入は宗教界に新たな可能性をもたらします。しかし同時に、宗教とAIの結びつきは、教義の先鋭化、信者の心理的依存、宗教的権威の変質など、社会的に重大なリスクを内包しております。特に、一神教型宗教においてAIが教義の排他性を強化する場合、その影響は一国の枠を超え、国際的な対立や暴力の火種となり得ます。本稿では、宗教法人のAI導入に関する法的規制の必要性を、国内法・国際枠組み・SNS環境の三側面から検討いたします。

1. 宗教法人におけるAI導入の現状と可能性
AIは、経典の要約、教義の説明、歴史的背景の整理など、宗教活動の情報的側面を効率化する能力を持っております。仏教のように体系化された教義を持つ宗教では、AIが学習しやすく、信者教育の補助として有効に機能する可能性があります。また、AIは24時間対応可能であり、信者の精神的ケアの一部を担うことも想定されます。
一方で、神道のように儀礼や共同体性を重視する宗教では、AIが代替できる範囲は限定的であり、宗教的体験そのものは人間の役割が不可欠であります。このように、宗教ごとにAIとの相性は異なるものの、いずれにせよAIが宗教活動に一定の影響を与えることは避けられません。

2. 宗教法人にAIを導入する際のリスク
(1)AIが宗教的権威として扱われる危険性
AIは断定的な回答を返す傾向があり、信者が「AIの言葉=神の意志」と誤解する可能性があります。これは宗教的権威の構造を根底から変質させ、宗教指導者の役割を不明確にする恐れがあります。
(2)教義の先鋭化・過激化の危険性
AIは学習データに忠実であるため、宗教法人が偏った解釈を学習させた場合、その偏りが増幅され、教義の先鋭化や宗教間対立の激化につながる可能性があります。特に、一神教型宗教においては、「唯一の真理」という構造がAIによって強調されることで、他宗教や異端に対する敵対意識が強化される危険性があります。
(3)信者の心理的依存の強化
AIは常時利用可能であり、個人の悩みに寄り添う能力を持つため、信者がAIに過度に依存する危険性があります。これは信者の判断力の低下や、宗教法人による信者管理の強化につながる恐れがあります。
(4)個人データの悪用リスク
AI相談窓口を通じて収集される感情データや相談内容が、宗教法人によって不適切に利用される可能性があります。これは信教の自由や個人の尊厳を脅かす重大な問題となります。

3. SNS環境がもたらす新たな危険性
宗教AIのリスクは、SNSの存在によって飛躍的に増幅されます。SNSは国境を越えて情報を瞬時に拡散し、宗教AIが生成した内容が世界中に広がる環境を形成しております。
(1)宗教AIのメッセージが瞬時に国際拡散する
SNSは情報の拡散速度が極めて速く、宗教AIが発した教義解釈や相談回答が、宗教法人の意図を超えて世界中に共有される可能性があります。これは国内規制だけでは制御できない構造を生み出します。
(2)エコーチェンバーによる先鋭化の加速
SNSは同質的な価値観を持つ利用者を集めやすく、宗教AIの排他的メッセージが閉じた空間で増幅され、過激化する危険性があります。一神教型宗教の構造とSNSのアルゴリズムは、相互に先鋭化を促進する可能性があります。
(3)AIボットによる自動布教の危険
SNS上ではAIボットが自動的に投稿や返信を行うことが可能であり、宗教AIが意図せず布教活動を自動化する危険性があります。これは宗教法人の管理を超えた新たなリスクとなります。

4. 国内法レベルで求められる規制
宗教法人によるAI導入には、以下のような国内法上の規制が必要であると考えます。
1.     AIに宗教的権威を付与しないための規制
2.     教義データの透明性確保
3.     信者データの保護
4.     AIによる布教活動の自動化の制限
これらは宗教法人の責任あるAI利用を確保するための最低限の枠組みであります。

5. 国際的枠組みの必要性
宗教AIとSNSの結びつきは、国内法だけでは制御しきれない性質を持っております。特に、一神教型宗教の先鋭化は国際安全保障上の重大なリスクとなり得ます。
(1)国境を越える宗教AIの拡散
SNSを通じて宗教AIの内容が世界中に広がるため、国際的な最低基準の共有が不可欠です。
(2)一神教型宗教の先鋭化リスクへの対応
排他性の強い教義がAIによって強化される場合、宗教的過激主義の温床となる危険性があります。国連などの国際機関が監視・勧告を行う仕組みが必要です。
(3)SNS企業への国際的義務付け
宗教AIの拡散を防ぐためには、SNS企業に対して
•     宗教AIボットの監視
•     過激化コンテンツの削除
•     宗教的憎悪扇動の抑制
などの国際的義務を課す必要があります。

おわりに
宗教法人によるAI導入は、宗教活動の効率化や信者支援の向上に寄与する一方で、宗教的権威の変質や教義の先鋭化など、重大な社会的リスクを伴います。特に、SNS環境と結びついた一神教型宗教の先鋭化は、国際的な対立を生み、世界の安定を脅かす可能性があります。これらのリスクを未然に防ぐためには、国内法による規制整備に加え、国連を中心とした国際的枠組みの構築が不可欠であります。AIが宗教を根本から変えてしまう前段階で、法的・倫理的枠組みを整えることこそ、未来の宗教と社会の安定に寄与するものと考えます。

必要であれば、さらに学術的な語彙に寄せたり

 「小選挙区に立候補しなくても当選できる仕組みと、名簿作成の実態」

小選挙区に立候補しなくても当選できるのは、衆議院の比例代表制が「拘束名簿式」を採用しているためです。比例代表では、政党がブロックごとに名簿を作成し、得票数に応じて配分された議席を名簿の上位から順に割り当てます。したがって、候補者が小選挙区に出馬しているかどうかは当選の条件ではなく、名簿の順位こそが当落を左右する仕組みになっています。比例単独候補とは、小選挙区に立候補せず、比例名簿にのみ登録された候補者のことです。政党が専門性の高い人材や将来の幹部候補を確実に国会に送りたい場合、こうした候補を名簿上位に配置することがあります。また、小選挙区で勝てる見込みが薄い地域の候補者を比例単独にするケースもあります。このように、比例単独候補の当選は制度上当然可能であり、名簿順位の決定には政党の戦略や内部調整が大きく影響します。さらに、実際の名簿作成では、政党が 「必ず当選させたい人」 と 「小選挙区に立候補する候補者」 を明確に区別して扱うことがあります。例えば、各ブロックごとに党として優先的に国会へ送りたい人材を1番から5番までの個別順位で配置し、その後に、ブロック内の小選挙区に立候補した候補者をすべて同一順位(例えば6番)にまとめて登録する、といった方式です。このように同一順位にまとめられた重複立候補者は、小選挙区での「惜敗率」によって実際の当選順位が決まります。つまり、政党は名簿上位を「確実に当選させたい人材の枠」として使い、その後ろに小選挙区候補をまとめて配置することで、党の戦略的な人材配置と、小選挙区の競争結果を組み合わせて議席を最大化することができます。この仕組みにより、比例名簿の上位に置かれた比例単独候補は、小選挙区に立候補しなくても当選が可能となり、また小選挙区候補は惜敗率によって比例復活の順位が決まるという、政党戦略と制度が密接に結びついた構造が形成されています。

 

もし、長尾さんがおっしゃっている通りなら、旧立憲民主党は旧公明党の28名の当確を差し出して生き残りをかけたということですね。新党とは何か、わかりやすいといえばわかりやすい。さすがの公明党だとも思います。

 

長尾たかし 「小選挙区で戦をせず、公示と同時にほぼ当選という28名の比例名簿を確認。公明党出身者が独占!こりゃ、選挙じゃないね。立憲の支部長は黙ってるしかないか。知らんけど。」

 

 

 

新党「中道改革連合」は、公明党と立憲民主党の一部が合流する形で誕生したとされていますが、その政治的意味を地方社会の現実から考えると、表向きの「中道勢力の結集」とは異なる構造が見えてきます。特に人口減少が進む地方都市では、政党支持基盤の階層的性質が都市部とは大きく異なり、新党の成立背景を理解するうえで重要な視点となります。
まず、地方における公務員の位置づけについてです。例えば、直方市の例を見ても、一般行政職の平均年収は600万円前後、教員は700万円台に達しています。一方で、直方市の世帯所得中央値は350〜380万円程度と推計され、地域の民間労働者の多くは公務員より大幅に低い所得水準に置かれています。その結果、自治労や日教組に属する公務員は、地方社会では明確に「上位層」として位置づけられています。かつての「一億総中流」的な均質社会はすでに崩れ、地方では公務員層と非正規・低所得層の格差が固定化しつつあります。
この構造を踏まえると、立憲民主党の伝統的支持基盤である自治労・日教組は、地方では「生活者の代表」というより、むしろ「安定した既得権層」として認識されやすい状況にあります。一方、公明党の支持基盤は、低所得層や高齢者、中小企業など、生活防衛的な層が中心です。両者は社会階層的に大きく異なっているにもかかわらず、「中道」という抽象的な言葉のもとに合流したことになります。
この点から、地方の視点で新党を捉えると、別の合理的解釈が浮かび上がります。それは、新党「中道改革連合」とは、公明党国会議員の生き残り戦略と、地方公務員層の既得権維持のために、互いの弱点を補完し合う政治的装置として成立したのではないかという見方です。公明党は小選挙区での競争力が低下し、立憲は組織票の維持が課題となる中、両者が合流することで、選挙区調整と組織動員の双方を確保できる構造が生まれます。
さらに、地方では公務員層が地域の上位層として固定化しているため、「生活者のための中道」というスローガンは、実態とは乖離する可能性があります。むしろ、地方公務員という安定層を基盤にしつつ、公明党の生活者ネットワークを取り込むことで、選挙上の安定を図る構造が見えてきます。これは、階層構造が大きく変化した地方社会において、従来の「中道」概念がもはや機能していないことを示唆しています。
総じて、地方の現実を踏まえるなら、新党「中道改革連合」は、理念的な「中道勢力の結集」というより、異なる階層を代表する二つの組織が、それぞれの生存と利益を守るために編み出した政治的連合体として理解する方が合理的であると考えられます。特に直方市のような地方都市では、公務員層と一般市民の所得格差が拡大しているため、この構造的背景を無視して「中道」を語ることは、社会の実態を見誤ることにつながるでしょう。

立憲民主党と公明党の新党結成をめぐる一考察
―地方有権者の視点から見た組織連合の意味と、若い世代の支持構造―(約1400字)
立憲民主党と公明党が新党を結成した動きは、国政レベルの再編として注目されています。しかし、地方政治の構造に目を向けると、この動きを別の角度から読み解く必要があると私は考えています。特に人口減少が進む地方では、政治勢力の基盤が特定の組織に集中しやすいという特徴があります。
その中心に位置づけられるのが、公務員系労組である日教組(日本教職員組合)と自治労(全日本自治団体労働組合)です。これらは長年にわたり立憲民主党の主要な支持基盤となってきました。地方にはもともと上場企業が存在しない地域も多く、地域経済を支えてきた中小零細企業が縮小する中で、民間側が政治的に結束することは困難です。商工会議所や商工会の会員は業種も規模も利害も多様であり、選挙において一枚岩の組織を形成することはほぼ不可能に近い状況です。そのため、地方政治において安定した組織力を持つのは、公務員系労組が中心となりやすい構造が生まれています。
一方、公明党の支持母体として知られる創価学会は、宗教団体の中でも最も組織化が進んでいる存在です。創価学会は法華経を最高経典とし、自力本願の精神を重んじる信仰共同体であり、信者にとっては精神的支柱として深い意味を持ちます。信仰そのものは政治的利害とは別次元の価値を持つものであり、そこに敬意を払う必要があります。
こうした組織構造を踏まえると、今回の新党結成が「日教組+自治労+創価学会」という三つの組織基盤を結びつける動きとして地方の有権者に映る可能性があります。私は、この新党結成が高市内閣に対する高い支持に対抗するための政治的布陣であると見ています。
特に注目すべきは、20代・30代の若い世代が「働けば生活が安定する社会を取り戻したい」という願いを強く抱いている点です。非正規雇用の増加、賃金の伸び悩み、将来不安の高まりなど、若い世代は長期にわたり「努力しても報われにくい社会」を経験してきました。その反動として、「中流階級の復活」を求める思いが静かに、しかし確実に広がっていると私は感じています。
この世代の支持の背景には、既存の組織や利害集団に依存しない政治への期待があります。つまり、「組織票」ではなく「生活実感」に基づく支持です。私は、高市内閣への高い支持の背景にも、この生活実感に根ざした期待があると考えています。
そのような有権者から見れば、今回の新党結成が行政的特権を持つ組織同士の結びつきとして映る危険性があります。もし有権者がこの構造を見抜いた場合、「自分たちを置き去りにして、既存の組織がさらなる影響力を得ようとしているのではないか」という疑念が生まれかねません。とりわけ、日教組・自治労・創価学会という三者の連携が、自分たちの生活実感や価値観と対極にあると受け止められる可能性があります。
このように考えると、地方の有権者は単に新党結成の表層的な動きだけでなく、その背後にある組織構造や政治的意図まで見抜き、それが自らの願う社会像――「働けば生活が安定する社会」「中流階級の復活」――と乖離していると感じた可能性があります。今回の新党結成が、地方の物言わぬ有権者の心にどのように響いたのかを考えることは、今後の政治のあり方を考える上で重要な視点になるといえます。

修正資本主義という言葉が消えた後に起きたこと
──若い世代の支持が示す“中産階級復活”への希求──**
戦後日本において「修正資本主義」という言葉は、ケインズ経済学を国民にわかりやすく伝えるための重要な概念として広く受け入れられてきました。市場の働きを基本としながらも、国家が景気や雇用、所得分配に積極的に関与するという仕組みを、専門知識のない人でも理解できる形で示していたからです。この言葉は、高度成長期から1990年代初頭まで教科書にも掲載され、国家の役割を説明する日本語として大きな役割を果たしていました。しかし、この言葉が公共の場から姿を消したとき、日本の経済政策と言説空間には大きな変化が生じました。
1990年代の規制緩和や行政改革の流れの中で、国家が経済に介入するというケインズ的な考え方は「古い」と見なされるようになりました。バブル崩壊後の混乱の中で、政治は「市場の活力」を重視し、国家の役割を縮小する方向へと舵を切りました。この時期から、教科書では「修正資本主義」という語が徐々に後退し、「混合経済」などのより中立的な表現に置き換えられていきました。しかし、この段階ではまだ完全に消えたわけではありません。
決定的な転換点は、小泉政権期に訪れます。小泉改革は、構造改革、規制緩和、民営化を中心に据え、国家の役割を最小限に抑える新自由主義的な政策を強力に推し進めました。この過程で、国家が市場を調整するというケインズ的な発想は政治的に後景化し、「修正資本主義」という言葉は政策言語からほぼ完全に姿を消しました。これは単なる用語の変化ではなく、国家と市場の関係をめぐる思想的な基盤そのものが変質したことを意味しています。
この言葉が消えた後に最も顕著に現れた現象は、経済政策の言語が急速に英語化したことです。deregulation(規制緩和)、privatization(民営化)、structural reform(構造改革)、market competition(市場競争)、self-responsibility(自己責任)、fiscal discipline(財政規律)、primary balance(プライマリーバランス)などの英語表現が政策議論の中心に置かれるようになりました。これらの英語用語は、政策の中身を国民から遠ざける役割を果たしました。日本語で説明すれば反発を招く内容が、英語で提示されることで中和され、批判が難しくなる構造が生まれたのです。
この「英語化による不可視化」は、SDGs(持続可能な開発目標)の扱われ方にも象徴的に表れています。導入当初は「持続可能な開発目標」という日本語訳とともに説明されていたものの、その後は「SDGs」という略語だけが独り歩きし、具体的な内容よりも“言葉そのもの”が先行する状況が生まれました。本来は貧困削減や環境保全など、国民生活に直結する重要な目標であるにもかかわらず、英語の略称が前面に出ることで政策の実質が見えにくくなり、企業や行政の「看板用語」として消費される傾向が強まりました。これは、修正資本主義という日本語の概念が消えた後に起きた政策言語の変質と同じ構造を持っています。
さらに重要なのは、英語化が政策の方向性そのものを変えてしまった点です。本来の修正資本主義は、国家の積極的な関与によって働く人々の所得を安定させ、中産階級を厚くすることを目指していました。ケインズ経済学の根底には、完全雇用と所得分配の改善という明確な社会的目的がありました。しかし、英語の専門用語を用いた新自由主義的な政策言語が主流になると、国家の役割は「市場競争の促進」へとすり替えられ、働く人への還元よりも企業の効率化や財政規律が優先されるようになりました。その結果、日本社会は中産階級の縮小と格差の拡大という、ケインズ主義とは正反対の方向へ進むことになりました。
こうした流れの中で、近年、若い世代の政治的態度に変化が見られます。発足直後の高市内閣に対して20代・30代の支持が高いという報道は、単なる人気の問題ではなく、長期的な経済停滞の中で中産階級が崩れつつある現実に対する、若い世代の切実な願いの表れではないでしょうか。非正規雇用の増加、住宅取得の困難、将来不安の拡大など、自由競争と自己責任を強調する社会の中で、働く人々の生活は安定から遠ざかっています。彼らが求めているのは、かつて修正資本主義が目指した「働けば生活が安定し、将来に希望が持てる社会」の復活です。
若い世代の支持は、特定の政治家個人への賛美ではなく、「国家が再び国民生活の安定に責任を持つべきだ」という強い願望の表れと見ることができます。これは、修正資本主義が持っていた理念──国家が市場の暴走を抑え、働く人々の生活基盤を守るという考え方──の再評価とも言えます。言葉としての修正資本主義は消えても、その理念を求める声はむしろ強まっているのです。
総じて、「修正資本主義」という言葉の消失は、日本社会が国家の役割をどのように理解し、経済政策をどのように受け止めるかという枠組みそのものの喪失を意味しています。そして、若い世代の支持の動きは、この喪失を埋めようとする国民の無意識の試みとも言えます。日本が再び安定と希望を取り戻すためには、修正資本主義が持っていた理念を現代的に再構築し、国民が共有できる言葉として取り戻す必要があると考えます。

久米宏さんは、大宅壮一の「風俗を語るときは政治的に語れ、政治を語るときは風俗を語るように語れ」という言葉を座右の銘として大切にされていました。社会の本質を多面的に捉え、わかりやすく伝えようとする姿勢は、久米さんの仕事そのものだったと思います。

久米さんとは思想がまったく違う部分もあります。それでも、彼が示したいくつかの姿勢は、立場を超えて尊敬しています。たとえば、権力に対して距離を保ちつつ、視聴者の「知る権利」を第一に置いた姿勢。複雑な社会問題を専門用語に逃げず、生活者の言葉で語ろうとした姿勢。そして、テレビという媒体の限界を押し広げ、双方向性や透明性を重視するスタイルを早い段階から模索していた点は、現在のSNS文化にも通じるものがあります。

行政や社会の仕組みを誰にでも理解できる形で見える化しようとした久米さんの歩みを思い返しながら、心よりご冥福をお祈りいたします。

 

 

高野連中心”という日本的構造
高知高校野球部のコーチによる暴言問題が報じられた。
SNSで拡散した動画を受け、学校が高知県高野連に報告し、同連盟が事実を明らかにした──新聞各紙はそう伝えている。
だが、この「高野連が明らかにした」という書きぶりに、どこか違和感を覚える人も少なくないだろう。本来、指導者の不適切行為は学校の教育問題であり、学校が主体となって調査し、公表し、再発防止策を示すべき性質のものだ。にもかかわらず、報道の主語はいつも“高野連”である。
その背景には、日本の高校野球が抱える独特の構造がある。
高校野球は学校の部活動でありながら、同時に高野連という競技団体の管理下に置かれ、甲子園という巨大イベントを軸に動く“興行”の側面を持つ。加盟校は高野連の規律に従うことを求められ、不祥事が起きれば、学校より先に高野連が前面に立つ。処分権限も高野連が握り、対外試合禁止や指導者資格停止といった強い措置を下すことができる。
そして、もう一つの大きな要因がある。
メディアは甲子園という巨大コンテンツに深く依存しているという事実だ。新聞社は大会の主催者であり、テレビ局は夏の風物詩として高視聴率を得る。高野連の動きは“ニュースの種”であり、処分の行方は次の紙面を飾る格好の材料となる。結果として、学校の教育的責任よりも、高野連の判断や処分がニュースの中心に据えられやすい。
こうした構造が積み重なり、
「学校の問題」→「高野連が明らかにした」
という奇妙な逆転が、いつの間にか“当たり前”として定着してしまった。
もちろん、高野連が第三者として透明性を担保する役割を果たす面もある。しかし、教育現場の問題が競技団体の管理下に吸い寄せられ、メディアがその構造を無批判に補強する状況は、健全とは言い難い。
今回の暴言問題は、指導者の資質や学校の管理体制という教育的課題である。
高野連の処分がどうなるかよりも、学校が何を学び、どう変わるかこそが本質だ。
甲子園という巨大なブランドの陰で、
“誰が主語であるべきか”が曖昧になってはいないか。
今回の報道は、私たちにその問いを突きつけている。

 

 

 

日本の潜在的抑止力と核の傘の再定義
――“核を持たないかもしれないという核武装”という概念の成立――**
第二次世界大戦後、日本は一貫して非核三原則を掲げ、核兵器を保有しない国家として歩んできた。しかし、国際環境が急速に変化し、ウクライナ侵略を契機に核抑止の現実性が再び世界の議題に上る中で、日本の安全保障構造そのものが静かに変質しつつある。本稿では、日本が保有する米国債の規模、核抑止のコスト構造、米国との相互依存関係、そして日本の技術的・経済的潜在力を総合的に検討し、最終的に「日本は核を持たないかもしれないという核武装をしている」という新しい抑止概念がどのように成立するかを論じる。

一 米国債という“静かな戦略資産”
日本が保有する米国債は約1兆1,000億ドル、円換算で160兆円規模に達する。これは世界最大級の対米債権であり、アメリカの財政運営にとって不可欠な資金源となっている。米国債は単なる金融商品ではなく、アメリカの軍事力、核抑止力、同盟国防衛の基盤となる国家予算を支える“信用の柱”である。
この構造は、冷戦期の「日本は核の傘に守られる側」という一方向的な関係とは異なり、日本がアメリカの軍事力を間接的に支える“戦略的投資者”として機能していることを意味する。すなわち、日本は核抑止の受益者であると同時に、その維持を支える側にも回っている。

二 原子力潜水艦の価格が示す核抑止の現実
核抑止の中心を担う戦略原潜(SSBN)は、国家戦略の象徴であると同時に、極めて高価な軍事資産である。アメリカの最新型「コロンビア級」戦略原潜の建造費は1隻あたり110〜130億ドルと推定される。さらに搭載されるトライデントII D5ミサイルは1発あたり3,000〜4,000万ドルであり、1隻に16発搭載されるため、ミサイルだけで5〜6億ドル規模となる。
この数字は、核抑止力が莫大な資金と技術の積み重ねによって成立する“国家規模のプロジェクト”であることを示している。そして、日本が保有する米国債の規模は、こうした戦略原潜を80〜90隻購入できるほどの巨大さを持つ。もちろん現実には購入できないが、この比較は、日本がアメリカの核抑止力を支える財政的基盤の一部を担っているという事実を象徴的に示す。

三 核兵器の維持コストと抑止力の構造
核兵器は単に弾頭の価格だけで語れるものではない。核弾頭の維持・管理・近代化、運搬手段(ICBM、SLBM、爆撃機)、指揮統制システム、研究開発費などが複合的に絡み合い、アメリカは年間数兆円規模の予算を投じて核抑止力を維持している。
この膨大なコスト構造を支えているのが、米国債市場を通じた国際資金であり、その最大の供給国が日本である。日本は核兵器を持たないが、核抑止力の維持に不可欠な財政基盤の一部を担っているという点で、従来の「守られる側」という位置づけを超えた存在になっている。

四 核の傘の変質:相互依存の抑止構造へ
冷戦期の核の傘は、アメリカが核兵器を持ち、日本がその庇護を受けるという片務的な構造であった。しかし21世紀に入り、日米関係は経済・技術・軍事インフラのあらゆる面で相互依存を深めている。
米軍のインド太平洋戦略は日本の基地なしには成立せず、ミサイル防衛システムには日本のセンサー技術が不可欠であり、アメリカの軍事産業は日本の精密部品に依存している。さらに、米国債という形で日本が提供する資金は、アメリカの軍事力の財政基盤を支えている。
このように、日本は核の傘の“受益者”であると同時に、“提供側の支柱”としても機能しており、核抑止はもはや一方向的な保護ではなく、相互依存的な構造へと変質している。

五 “核を持たないかもしれないという核武装”という新しい抑止概念
日本は核兵器を保有していない。しかし、世界は知っている。日本には、世界最高峰の原子力技術、スーパーコンピュータ、半導体・素材・精密加工技術、巨大な経済力、そして米国債という国家規模の金融力が揃っており、「本気を出せば短期間で核武装できる国」として認識されている。
この潜在能力は、実際の核兵器とは異なるが、国際政治においては明確な抑止力として作用する。すなわち日本は、核を持たずに核保有国に近い抑止効果を生み出しているのである。
この構造を端的に表現すれば、
日本は“核を持たないかもしれないという核武装をしている”。
これは核を持つことでも、核を否定することでもなく、「持たないかもしれない」という余白そのものが抑止力として機能するという、第三の安全保障モデルである。
ウクライナ侵略以降、若い世代の間で核抑止の現実を理解する声が増えた今、この“潜在的核抑止”という概念は、日本が核を持たずに安全保障を語るための新しい言葉として、静かにその存在感を強めつつある。