昨日の通り、何回かに分けて京都の歴史散歩としてご紹介をさせて頂こうかと思います
歴史好きの方も、そうでない方もよろしければご覧ください
1回目は、明日6月2日と言えば・・・ あの「本能寺の変」の日です。
1582年6月2日、京都本能寺にて織田信長が明智光秀に討たれるあの本能寺の変です。
教科書では習うのですが、それがいったいどこにあるのかご存じありますか
地下鉄は烏丸線の四条駅から徒歩10分~15分のところにあります。
今でこそ結構な中心部ですが、往時は京都の外れだったそうです。
今回私がお世話になったホテルは「ホテルビスタプレミオ和亭(なごみてい)」です。
なぜここを選んだのか・・・ それは・・・ 安かったから というのもありますが、
本能寺跡に近かったからです
では、本題です
ホテルからは徒歩3分の場所に本能寺がありました。
本能寺は南は「蛸薬師通」、西は「西洞院通」、北は「六角通」、東は「油小路通」に囲まれた場所にあり、現在は真ん中に道路が通っています。
ホテルから本能寺に向かって下り坂になっていて、ホテル側との高低差は5m程もあり、下り切った先に「西洞院川」がかつて流れていたそうです。
下り切った場所で、地図上のオレンジの矢印場所です。幅が急に狭くなっているのは、本能寺
拡張時に埋め立てた名残りのようです 目の前の通り(南側、蛸薬師通)には堀が設けら
れていたそうです。ちなみに、光秀の幕臣、斉藤利光はこの通りから本能寺に突入したらしい
です。
別角度、西洞院通りが急に狭くなっているのがわかりますよね 半分の広さです。
ホテルから坂を下り切り西洞院通を右折します。かつては川が流れていて、本能寺には橋が
かかっていたそうです。進みます
マンションの建設現場の右隣のあたりが本能寺の正門があった辺りと言われています
本能寺の変に参加をしていた、本城惣右衛門という人が書いた「本城惣右衛門覚書」という
文章によると、変の当日には門番1人しかおらず、簡単に入れた。とあるそうです。それだけ
無防備だったんですね (地図Aの場所)
周囲を巡ると、ここが本能寺だったんだと感じる事が出来ます。
本能寺側(蛸薬師通)からホテル側を見ると、結構な坂道になっているのがお分かりかと。
現在は真ん中に道が出来てしまっていますが、ちょうど中間のあたり(写真右側)が、本能寺
の本堂があった辺りで、信長はこの場所で亡くなっていると言われています
今では普通の住宅地ですが・・・
地図Cの場所に、本能寺跡という石碑があります。
実際の場所からは少し外れていますが、何故ここにあるのか不思議です。
本能寺は、この後再建をされるべく工事が始まるのですが、何故か秀吉によって工事途中で
中止され、寺町通の現在の場所へ移転させられる事となります
さて、その真実は? 1つの想像として、本能寺と南蛮寺(地図B)に地下道を通しており、
その事がばれるのが怖くて工事を中止させた。といった物語もあったりします
地図Bの地点に「南蛮寺跡」があります。キリスト教の教会跡ですね。
ホテルの部屋から見える白い建物のあたりが南蛮寺だったのでしょう
信長の遺骸は本能寺では見つかっていません。先程の通り本能寺から南蛮寺へ地下の抜け
道が存在しており、その地下道で亡くなった。という発想も面白いな~と思ったりしました。
丁度440年前、このホテルの近くに明智家の桔梗紋が付いた武士が大勢いたことでしょう。
目をつむるとその当時が見えてくるような気がします
さて、これはネット上から拝借しましたが、洛中洛外図屏風という屏風絵に描かれている
本能寺です。図の上の方がホテル、真ん中のあたりに西洞院川が流れています。
さて、本能寺の変の本当のきっかけは何だったのでしょう 怨恨説、朝廷説、四国説等々
皆さんはどう思われますか?
信長の遺骸は先程の通り見つかっていません。
じゃあどこに 明智軍が一重、二重と囲んでいる中、逃げ出すことは難しいと思われます。
森蘭丸も見つかっていません。焼けてしまったんじゃ?と思っても、お骨になるくらいの高温
は火災程度の温度では難しいそうです。
次回は、その謎とその後を追ってみました
今回もご覧頂きありがとうございました