その頃、吾妻地域では鎌原幸重と羽尾幸全が小競り合いを起こしていた。
羽尾幸全が万座温泉に湯治に出かけた隙に羽根尾城を奪ったり・・・
馬に乗った鎌原幸重を鉄砲で狙撃しようとして仲間を誤射したり・・・
そこで武田信玄が裁定に乗り出したが、旧領を割譲されて不満が募った羽尾幸全は岩櫃城の斎藤憲広・白井城の長尾憲景とともに長野原城に攻め込んだ。
世に名高い長野原合戦の始まりである。
長野原城を守っていた常田新六郎(真田幸隆の弟)は奮闘したが討死、鎌原幸重は北信濃に逃げ込んだ。
これに対し、信玄の命を受けた真田幸隆が吾妻に出陣して長野原城を奪還、大戸城の大戸真楽斎を降伏させる。
そのまま斎藤憲広の居城・岩櫃城を攻めるが難攻不落の堅城であるため、得意の調略で海野幸光・輝幸兄弟と斎藤弥三郎を真田方に寝返らせ、城の内部から崩壊させる。
斎藤憲広は越後に逃亡、吾妻地域は真田幸隆が治めることとなった。
※上野史考
平成30年現在、吾妻から沼田にかけての道を真田街道として町おこしをしている。
真田の知名度を考えると当然であろう、自分も真田昌幸が好きなので。
しかし、ごく最近までは真田を使った町おこしなどは行われていなかった。
真田氏が上州で何をしたのか、地元民はみんな判っているのだ。
謀略により岩櫃城を奪い取り、沼田城の前城主の子・沼田平八郎をだまし討ち。
極めつけは真田信利が私腹を肥やすために行った悪政である。
重税により沼田領民は窮乏して多数の餓死者が発生、意見する者は水牢に入れて殺してしまう。
そこで農民の杉木茂左衛門が将軍に直訴して真田氏は改易されたが、茂左衛門は妻子もろとも磔にされてしまった。
まさしく天下の義人・茂左衛門なのである。
最近沼田市に上州真田武将隊なるコスプレ集団がいるようなので、沼田を愛する自分としては十字架を背負って参加したいものである。