永禄5年(1562年)、この年も上杉謙信は越山して赤井照景の居城・館林城を攻め落とし、足利長尾当長に与えた。
その後、関東の諸将に請われては常陸・下野・下総を転戦するが、各勢力ともに謙信が攻めてくれば降伏・越後に戻れば離反の繰り返し。
義のための出兵と言えば聞こえはいいが、無駄な損失ばかりが増え何のために戦をしているのか分からなくなっていた・・・
逆に手薄になってしまった上野を、甲斐の武田信玄が見逃すはずが無かった。
妙義の高田城主・高田憲頼を恭順させ、甘楽の国峰城を元城主・小幡憲重・信貞父子に奪還させると近隣の木部範虎・和田業繁も降伏した。
小幡信貞はこの後も武田家中最大の5百騎を率いて各地を転戦、上野先方衆として武功を挙げていく。
松井田城の安中忠政は武田信玄に抵抗したが、子で安中城主の安中景繁が武田に降伏したために孤立して自刃。
武田信玄は巧みな戦略を駆使し、着々と西上野の掌握を進めていった。
※上野史考
『関東と信越つなぐ高崎市』
群馬県民であれば誰もが知っているフレーズである。
要地である高崎=和田城を武田信玄に奪われたことは、関東平定を目指す上杉謙信にとっては致命的である。
にも拘わらず、謙信は上州に進出した武田勢を追い払おうとはせずに、下野・下総・常陸への出兵を繰り返していた。
なぜなのか? 上杉謙信は権威主義者だからである。
名族である里見氏・佐竹氏・宇都宮氏からの救援依頼には応えるが、上州の国人衆のことなどはどうでもよかったのであろう・・・
結局上杉謙信は権威に対する義は重んじたが、国人衆からの信を得られずに関東から追い出されてしまうのであった・・・