先月31日、山陰の郊外型ショッピングセンターの嚆矢として、周辺に発展とにぎわいを創出した「ホープタウン」が、多くの市民に惜しまれつつその歴史に幕を下ろした。

 

 

ホープタウンは、2016年2月期には14億100万円売上げ、2,600万円の黒字だったが、周辺へのドラッグストアの出店が相次いだことや販売チャネルの多様化などによる競争激化に加え、新型コロナウイルス感染拡大に伴う消費の落ち込みで、2021年2月期の売上が11億3,900万円まで落ち込み、損失は3,700万円の初の赤字に転落。また、建物の老朽化も閉店を決断した理由のひとつに挙げられている。

 

17日から1階エスカレーター横で開催された「ホープタウン39年の写真展」では、開業前から開業時の写真やチラシ、新聞記事などの資料が展示され、多くの人が懐かしそうに見入っていた。

 

 

紆余曲折からの1982(昭和57)年7月9日のホープタウン開店。地場資本との合併による規模拡大。ニチイ(のちのマイカル)との合弁会社の設立。マイカルの経営破たんを経ての独立。幾多の大波を乗り越えて今日に至ったホープタウンの激動の歴史が見られた貴重な企画展であった。

 

■ホープタウン39年の写真展■

 

― 創業期 ―

 

1963(昭和38)年、米子市本通り商店街に1つの衣料品スーパーが誕生しました。

ホープタウンの前身となる「菊屋」です。

高度成長期の波に乗って、順調な売り上げを記録していましたが、オイルショックが日本列島を直撃した1970(昭和50)年ごろをピークに売り上げが下降し始めました。

モノ余りの時代を迎えて消費者の価値観に変化が生じていたことと、自動車社会の到来が主な要因でした。

 

こうした社会の変化に対応すべく、社長の小西宗清(故人)は温めていたスーパー構想を実現に移します。

それが「米子ホープタウン構想」でした。

 

当初の計画では、国道9号線と皆生街道、外浜産業道路の交差点近くを候補地としていましたが、調整が難航し、断念。空き地探しが始まりました。

すると米原にあるゴルフの打ちっ放しの跡地に気が付きます。周辺はまだ閑散とした畑地が続いています。

 

時は、車社会の到来です。

 

「この地が最高の場所だ」

 

当時閑散としていたこの米原の地に、ホープタウンの建設が決まったのです。

 

当初は既存の大型店をはるかに上回る1万4000平方メートルの売り場面積を計画しましたが、大規模小売店舗法(当時)で定められた調整の結果、売り場面積7000平方メートルで結審しました。

 

いよいよテナントを集めて着工という矢先の同年5月末、社長の小西宗清が急逝します。

当時38歳で専務だった小西健夫(現社長)にホープタウン計画が委ねられることになりました。

 

幾多の困難を乗り越え、1982(昭和57)年7月9日、山陰初の郊外型ショッピングセンターが誕生したのです。

 

当初、「ホープタウン」は計画名であり店名は別に考える予定でした。

しかし、計画を公表して以来、すっかりその名が地域に定着したため、そのまま店名に採用したという逸話が残っています。

 

以上、全文転載。

 

■ホープタウン建設前の様子■

 

■当時、建設地が郊外であったことが分かる航空写真■

 

■開業時のキャッチフレーズは「生まれます!!米子の街に赤と白の大きな街」■

 

■開業当初、周辺に高層住宅が1棟のみ確認できる■

 

■三層吹き抜けを設けた斬新な店内■

 

小西社長は新聞インタビューで「ロー・コストとハイ・イメージの一石二鳥をねらった」と答えている。

 

■1階正面玄関付近の売り場の様子■

 

売場全体の明るさは本の字が読める程度に設定され、商品をスポットライトで浮かび上がらせた。これはアメリカの百貨店、ブルーミングデールズの手法を参考にして、通路の照明を落とし、商品を際立つようにした大丸梅田店(1983(昭和58)年4月27日開業)の売り場を連想させる。また、床の絨毯敷は、光を吸収し天井に反射させないためで、ランニングコストの抑制と同時に目や足を疲れさせない利点があると小西社長が新聞インタビューに答えている。

 

■赤い階段■

 

真っ赤な大階段は絶頂期のそごう建築を彷彿とさせる。

 

■屋上に設けられた巨大ガリバーの遊具■

 

このリアルなガリバーは、今でも多くの米子市民の記憶に残っている。

 

■塔屋よりこちら側は、後年増築された

 

オープン当日の発表では、来店客数5、6万人、売上高は直営部門だけで7千万円だったが、最終集計では、それをはるかに上回る数字だったという。

 

― 発展期 ―

 

ホープタウンの開店は、商都米子における激戦時代の幕開けを告げるものでした。

 

刺激された既存の大型店が次々と増床に踏み切ったほか、1990(平成2)年にはニチイ系の米子サティがJR米子駅前に、旧米子大丸を引き継いだ米子しんまち天満屋や米子市西福原に移転し、それぞれ新築オープンします。

1999(平成11)年には、大型専門店街を備えたジャスコ日吉津店がオープンしました。

 

ホープタウンが立地する米子市米原や錦町周辺にも、大型専門店やマンションなどが次々と計画され、米子の副都心ともいえる発展を遂げました。

 

一方、時代も大きく変化していきます。

 

バブルの到来と崩壊、その後もデフレ。

流通小売業は時代の波の中で多様化する消費者のニーズを探りながら規模を拡大していきました。

 

この時期、ホープタウンもお客様のニーズに応えるべく、次々と姿を変えていきました。

 

開店3年後の1985(昭和60)年には、出雲ファミリーデパートと合併し、運営会社としてサンメルトを設立。

1993(平成5)年には、米子サティなど山陰のニチイ系8社で「サンインニチイ」(のちにマイカルサンインと改称)を設立し、スケールメリットによる地域社会への貢献を目指します。

 

この時、ホープタウンは従来のスーパーよりもワンランク上の品ぞろえを提案するサティ業態を導入。店名もホープタウンサティと変え、増床オープンしました。

 

しかし、同一商圏内に「ホープタウンサティ」と、駅前の「米子サティ」という2つのサティが存在することになり、二店舗ある優位性を十分生かしきれず、多様化する消費者ニーズに十分応えることができません。

このため1996(平成8)年に大改革に着手します。

駅前の米子サティに、ファッションを中心としたビブレ業態を導入し「米子ビブレ」と改称。

さらにホープタウンサティは、サティ業態のイメージを強固に打ち出すため、ホープタウンの名前を封印することにしました。

 

こうして、ホープタウンサティは「米子サティ」に店名を変え、再出発したのです。

 

以上、全文転載。

 

■ホープタウンサティとして増床オープン、のちに米子サティに改称■

 

― 独立期 ―

 

2001(平成13)年9月14日、世界中を震撼させた米国中枢同時多発テロが発生して3日後、今度は国内流通業界を震撼させる出来事が起きました。

 

マイカル(旧ニチイ)が民事再生法を申請したのです。

 

当時、米子には米子サティ(ホープタウン)と米子駅前ビブレの2店舗があり、マイカル破たんのニュースは商都・米子の地盤沈下を予測させるものとして、地域社会に大きな波紋を広げました。

 

この混乱の中、ホープタウンは一つの大きな決断をします。

 

独立です。

 

「商都―あの日あの時」ではこの時についてこう書かれています。

 

「小西氏はこれ(マイカル破綻)をチャンスとしてとらえ、即独立を決意しました。もっと地域に密着したサービスを、と考えたのです」

 

混乱が続く翌10月、ホープタウン開店後は不動産管理会社となっていた「菊屋」の名義でマイカルサンインの所有する全株式を取得し、マイカルからの独立を果たします。

 

11月にはマイカルサンインの社名と米子サティの店名を、創業当初の「ホープタウン」に戻し、地元企業として再出発の道を歩み出したのです。

 

マイカル傘下には、マイカルサンインと同様な子会社が24ありましたが、独立し、生き残っているのは全国で米子のホープタウンただ1つとなりました。

 

独立から2年後、社長の小西健夫は日本海新聞のインタビューでそれまでの経緯を振り返り、今後について次のように語りました。

 

「目指すのは、『ホープタウン業態』です。独自性を発揮し、他店との同質な競争から抜け出し、ホープタウンにしか出来ない商品・サービス・機能を提供することに全力を傾けてまいります。地域におけるナンバーワンよりも、お客さまお一人お一人にとってのオンリーワンのお店でありたいと願っております。」

 

以上、全文転載。

 

青空に映えるhope townの塔屋。

 

 

ホープタウン閉店の日、前日から当日午前中の雨模様のお天気が一転、快晴となった。

 

境線を走る妖怪列車とホープタウンは、長年見慣れた光景。

 

 

JR境線後藤駅隣接、米子市内を循環する米子だんだんバスも停車。

 

 

周辺にはマンションが林立する。

 

 

屋上駐車場からの景色もいよいよ見納め。

 

 

伯耆富士大山。

 

 

米子大丸を引き継ぎ、移転開業した米子しんまち天満屋。

 

 

かつての小売業のひのき舞台、米子の中心市街地・角盤町。

 

 

金網の向こうの機械群。

 

 

屋上店内入口。

 

 

サティの雰囲気が感じられる店内。

 

 

大半のテナントは昨年末で撤退、近隣に移転したため、売り場はガランとしている。

 

 

唯一、最終日まで営業していた飲食店で遅い昼食を摂る。なお、当店も近隣に移転し営業を継続する。

 

 

日は西に傾き、ホープタウンが赤く染まる。

 

 

顧客からの感謝の言葉で埋め尽くされたメッセージボード。


 

17時よりイベントスペースで閉店セレモニーが実施された。

 

 

店長、社長のあいさつに万雷の拍手が贈られた。

 

その様子は夕方のニュースで放送され、店内のモニターで来店客が見入っていた。

 

 

夕闇迫る屋上。

 

 

米子の隠れた夕日スポット。

 

1階メイン通路。

 

 

閉店時間の19時、店長以下スタッフが整列、立礼して最後の見送り。

 

 

正面玄関で最後のあいさつ、集まった顧客の拍手が響く中、39年の歴史に幕が下りる。

 

 

灯され続けたあかりは静かに尽きていった。

 

 

跡地利用について未定としていたが、閉店翌日の今月1日、米子市に本社を置く東大産業の子会社etto(エット)が、ホープタウン側から事業譲渡を受け、再生について検討していることが明らかとなった。具体的な内容は本日4日、ettoとホープタウンの関係者が出席する説明会で発表される予定。