米府の夜空を飛ぶ和尚・・・
圓流院・天井画「和尚の幽霊」より
確認のため、米子城址に登ってみました。
・・・飛んでない(←あたりまえ!!飛んでたら怖いわ!!)
飛んでいたのは鳶。
山上城址でお弁当を食べていると、急降下してきて強奪されます。ある意味、和尚さんよりも危険です。
夜空を飛ぶとされるのは、大山寺中興の祖として知られる豪円和尚です。
これは米府(米子)に伝わっているとされる妖怪話ですが、米子ではあまり聞かない話です。
和尚の幽霊
関ヶ原の合戦で徳川方についた中村忠一(※ママ)は、伯耆の国(現・鳥取県)を治めることになったが、この男、なかなか欲が深かった。
ここに大山寺という有名な寺があって、寺の領地として十一に村を持っていたのだが、忠一はこれを取り上げてしまった。これに対して猛烈に怒ったのが、豪円という和尚だった。寺を大きくするために働いた中心人物である。しかし、豪円がいくら藩とかけあっても、決定事項はどうにもならなかった。
そのうち豪円は病気で死んでしまうが、その死の間際、
「わしの身体は城を見下ろす場所に埋めてくれ。わしの一念で、かならず中村一族を滅ぼしてやる……」
といい残した。その遺言通り、豪円は城を見下ろす山の中腹に葬られた。
それからというもの、夜ともなると町の上空を和尚の霊が飛びまわるようになった。やがて和尚の呪いによるものか、中村一族は次々と不幸に見舞われ、とうとう断絶してしまったということである。
僧とはいっても、人間であるからには、怨みを持てば怨霊となって祟るわけである。
以上、『決定版 日本妖怪大全 妖怪・あの世・神様』(講談社)より
この話が米子にまつわるものだと気づいたのは、つい先ごろのこと。そして豪円和尚が葬られた城を見下ろす山は豪円山のこと。どちらもスグに検証が可能です。
大山寺参道入り口から見る豪円山
豪円山への入口は、だいせんホワイトリゾート近くです。ここから自動車で移動するとスグですが、歩いても5~6分の距離です。
ホワイトリゾートへのアクセスリフト横に源盛坂遊歩道が整備されており、リフトが運休でもショートカットが可能です。
源盛坂遊歩道出口から約200mで豪円山入口です。
入口から旧道で340m、新道で650mで頂上に到着します。
何体かのお地蔵さんにあいさつをしながら登っていると・・・
大きな松の木の下に、歴代大山座主二世から八世までの世代墓が並んでいます。
旧道は世代墓のスグ上、左手にありますが。しかし草が茫々に伸びており、ヤマカガシの目撃例もあることから、安全策を取って新道を進んでゆきます。
ふり返って、世代墓。
この墓碑の下に遺体が埋葬されているわけではありません。これらはお詣り用のお墓だということです。
新道のカーブのあたりには休憩所兼展望所が設けられていて、ここから見る大山北壁は実に美事(みごと)。
舗装された新道の終点にあるのが、ノーマルヒルのジャンプ台。
1991(平成三)年に大山町が6億7千3百万円投じて整備したものです。93(平成五)年に開催された国体で使用されました。それ以降、一度も使用されることなく朽ち果てようとしています。
この周辺でもヘビの目撃情報がありますので、足元に注意しながら登山道を進んでゆきましょう。
ジャンプ台からおよそ5分ほどで頂上に到着。米子のまちを一望できるその場所に豪円地蔵が祀られています。
豪円地蔵
豪円山の標高は892メートル。この山頂からの眺望はすばらしく、遠く隠岐の島まで見える大山での景勝地のひとつである。大山寺中興の祖「豪円僧正」の墓所となってから、この山を「豪円山」というようになり、それまでは「呼滝山(こたきさん)」といっていた。この山頂に座するのが「豪円地蔵さん」で、豪円僧正の名がつけられている。大山寺をこよなく愛した僧正の遺言で、米子城を望むことができるこの地に葬ったという。
豪円僧正異聞
豪円僧正は、大山寺領のことで米子城主と争っていた。僧正は死を前に「吾を葬るにはすべからく米子城を見渡せる地に於てせよ。吾必ず後日米子城の没落を見せよう」との遺言により米子城を望むこの地に葬った。そして三年後、城主中村一忠は頓死、家名血統を断つという伝説がある。
以上、『大山の地蔵』(大山新文化観光振興会)より
その視線の先には・・・
言い伝えどおり・・・
霞んでいて見えにくいですが、確かに米子城が見えます。
ここから藩主を呪い、それによって家名を絶ったのでしょうか?
豪円地蔵の解説がありましたが、長い年月、風雨にさらされたことによって、その半分ほどが消えてしまっています。解読不可能、まるで謎かけ(笑)
残った部分を読んでみると、
「城を俯瞰すべき地に於いて・・・」
「・・・は頓死」
「・・・血統を絶った」
寺領召し上げに怒った豪円僧正は頓死、遺言に従って葬られたここから藩主一族を呪詛し、ついにはその血統を絶つ。
TBS版・浅見光彦シリーズの舞台になりそうなシチュエーションです。実際に同シリーズは8作目で鳥取、10作目で隠岐を舞台にしていることから、「豪円伝説殺人事件」があってもよさそうな気もします(笑)
史実に目を向けてみると・・・
関ヶ原合戦で東軍・家康方に付いた中村一氏の子、中村一忠(かずただ)が12歳で駿河より米子に入府したのは1601(慶長六)年。家康より一忠の後見役に任ぜられた横田内膳正村詮(ないぜんのしょうむらあき)は執政家老として政務全般を取り仕切りました。
内膳は前任地である駿府において、検地、交通網整備、土木施策などの実績があり、米子においても五重天守をもつ米子城の築城、米子感応寺の建立、領国内の検地、米子十八町といわれる職業別、出身地別の町の整備、加茂川を米子城の外堀にする一方で、運河としても造成し、職業商人町と中海をつなげ大量の物資輸送を図るなど、米府400年の米子の礎を築きました。
これら政策の検地が衝突の原因となります。その対象が三千石安堵されていた大山寺領に及んだことから、豪円和尚の怒りを買うことになりました。豪円和尚と懇意にしていた一忠側近の安井清一郎は、自らの出世の障害となる内膳の才覚を妬み嫉んでいたことから、豪円和尚の怒りを利用します。一忠のもうひとりの側近であったと天野宗杷(あまのむねつか)組んで、当時十四歳の一忠に甘言し内膳を殺害させます。これが1603(慶長八)年の「米子城騒動」です。
謀殺を端緒として、内膳の嫡男(弟という説もあり)主馬助、柳生宗章らが蜂起し飯山に立て篭もりましたが、一忠は己の兵力では鎮圧できないと判断し、隣国の出雲藩主堀尾吉晴に援軍を依頼し鎮圧に成功します。
この騒動を知った家康は激怒し、首謀者の安井、天野両名を何等吟味をすることなく即時切腹に処します。また事件を阻止できなかったことを咎められた側近の道上長衛門、道上長兵衛は江戸において切腹に処せられます。一方、一忠に対しては、江戸入りを許さず品川宿止めの謹慎に処しお構いなしとしましたが、1609(慶長一四)年、わずか20歳の若さで急逝します。叔父である内膳を殺害したことや、城内外からの妄言や陰口に苛まれノイローゼであったとも、毒殺であったとも云われています。これにより中村家は、無嗣断絶(むしだんぜつ)により改易となります(しかし側室が男子を産んでおり、中村家は現在も続いています)。
これが豪円和尚の死後の呪いによるものとするには、些か無理があります。なぜなら横田村詮の死は1603年、中村一忠の死は1609年。そして豪円僧正の死は1611年。つまり豪円さんが一番長生きしましたから、話の辻褄が合わないのです。
この話には、なにか別の意味が込められているのかもしれません。その謎の解明は、警察を代表して国会などで答弁をなさる浅見刑事局長様の弟君であらせられる浅見光彦先生(TBS版)にお任せしましょう。
◆参考資料
『決定版 日本妖怪大全 妖怪・あの世・神様』 水木しげる 著 講談社 発行
『日本妖怪大事典』 水木しげる 画 村上健司 編著 角川書店 発行
『大山を探る 大山の地蔵 大山寺山内地蔵めぐり』 千田明 著 大山新文化観光振興会 発行