このお話をはたして怪談・奇談に加えるべきかどうか、些か考えてしまうところではあります。怪異ではないように感じますが、不思議といえば不思議な話。

江戸・本所七不思議八夜目の話しは津軽家の太鼓です。

南割下水に面した津軽越中守の上屋敷には、火の見櫓があった。通常、火の見櫓で火災を知らせる時は版木を鳴らすものだが、この櫓には版木の代わりに太鼓が下がっており、その太鼓を打ち鳴らして火事を知らせていたという。なぜ、津軽屋敷の櫓だけが太鼓だったのかは誰も知らず、不思議なこととされていた。

 

その状況は怖い、恐ろしいといった類のものではなく、とんだスットコドッコイな様子を想像してしまいました。あて例えるなら、江戸時代のナニ〇レ珍〇景的なお話しです。

 

また、版木を鳴らすと太鼓の音がしたという話もあります。

 

津軽家、陸奥弘前藩は最終的に十万石まで高直しされた外様大名です。その上屋敷は北斎通りに面した緑公園と野見宿禰(のみのすくね)神社から京葉道路に至るおよそ八千坪という広大なものでした。

 

山陰百貨店―山陰ぐらし☆右往左往―-津軽家の太鼓(南亀沢二丁目緑公園) 2008.11.15


津軽家の上屋敷は当初、神田小川町にありましたが、1607(慶長一二)年の津軽騒動にはじまり、1612(慶長一七)年高坂蔵人の乱、1634(寛永一一)年船橋騒動、1647(正保四)年正保の騒動、1687(貞享四)年烏山騒動と立て続けに不祥事を起こしたため、懲罰として1688(元禄元)年に辺鄙な湿地帯である本所に移転させられました。

 

津軽家と太鼓の因縁には次のような面白い話があります。三代目藩主信義が江戸城中でのお国自慢で加賀の殿様に対抗し、十尺の大太鼓があると大ぼらを吹いてしまいます。それでは確認の者を差し向けて確認するということになり、あわてた信義は急遽、造らせたという話があります。四代目信政の時、この大太鼓を江戸上屋敷に運び込んだとあり、その太鼓の音は江戸市中に響き渡り、津軽の太鼓は江戸の名物になったといいます。

 

この太鼓は1970(昭和四五)年に復元され、津軽情っ張り(じょっぱり)大太鼓と呼ばれ、弘前ねぷたまつりで活躍しているということです。

 

こうした経緯から、津軽家には版木の代わりに太鼓を叩くことが許されたのかもしれませんね。

 

◆参考資料

『日本妖怪大全』 水木しげる 著 講談社 発行

『日本妖怪大事典』 水木しげる 画 村上健司 編著 角川書店 発行

『江戸の闇 魔界めぐり ‐怨霊スターと怪異伝説‐』 岡崎柾男 著 東京美術 発行

NPO法人すみだ学習ガーデン すみだの大名屋敷