太秦広隆寺(うずまさこうりゅうじ)の西にひと駅となりが、帷子ノ辻(かたびらのつじ)駅
ここは京に於いても有名な魔所のひとつで、帷子辻(かたびらがつじ)と云われた場所です。
![山陰百貨店―山陰ぐらし☆右往左往―-帷子ノ辻 2009.12.06](https://stat.ameba.jp/user_images/20130817/11/sanin-department-store/43/fe/j/o0576038412650821435.jpg?caw=800)
平安時代初期、嵯峨帝の皇后であった橘嘉智子(たちばなのかちこ・786-805年)は、仏教の信仰が篤く檀林寺を建立したことから檀林皇后(だんりんこうごう)とも呼ばれました。すばらしい美貌の持ち主であり、恋い焦がれる人が後を絶たなかったと伝わっています。
皇后は長く続くこの状況に長く心を痛め、自らが深く帰依する仏教の教えに説かれる「諸行無常」の真理を自らの身をもって示して、人々に覚りを求める心を呼び起こそうと、死に臨んで、「自らの亡骸を埋葬せず、どこかの辻に打ち棄てよ」と遺言したそうです。果たして、遺言どおりに皇后の亡骸は辻にうち捨てられ、最初は野犬や烏のエサとなり、散々食い荒らされたあと、蟻や地虫などがしゃぶりつくし、最後は日光と風雨に晒され消えてしまいました。
ところがその後、人々がこの辻に差し掛かると、野犬や烏、虫などに貪られる檀林皇后の亡骸の恐ろしい光景が現われたと云われています。
![山陰百貨店―山陰ぐらし☆右往左往―-竹原春泉画『絵本百物語』より「帷子辻」](https://stat.ameba.jp/user_images/20130817/11/sanin-department-store/6a/f6/j/o0400049812650821436.jpg?caw=800)
※竹原春泉画『絵本百物語』より「帷子辻」
元々この辺りは、京の西の葬送地化野(あだしの)の入口に当たるため、昔から一種の魔所、あるいは魔界への入口と認識され、寂しい場所でもあったことから、行き倒れの死体などが捨てられていたのでしょう。
帷子辻の名称は、一説には皇后の経帷子(きょうかたびら)いわゆる死装束に因んで名づけられたとも伝わっています。
◆参考文献
らくたび文庫[No032] 『京都・魔界巡り』 株式会社コトコト 発行
[図説]日本妖怪大全 水木しげる 著 講談社 発行
α文庫『京都妖怪紀行』 村上健司 著 株式会社角川書店 発行
『あなたの知らない京都・異界完全ガイド』 平川陽一 編著 洋泉社MOOK