40年前の中国について。
当時の中国は1878年に始まった経済改革から数年が経ち、少しだけ成果が出て社会が変わり始めたものの、依然として交通手段の主役は自転車で朝夕の通勤時間帯は青い人民服を着て自転車に乗った人民で道路が埋め尽くされて波のようになっていました。
また急激な社会の変化により、インフレや格差、汚職など人々の不満が溜まり学生運動が盛んになり、これが数年後の天安門事件に繋がりました。
そのように中国国内は非常に不安定で、共産主義国なので外に出る情報が無く謎が多い未開の地といった国でした。
そういった点を踏まえた上で読んでいただけますと、当時の空気感など楽しんでいただけると思います。
中国大陸を旅する初日は北京よりまずは天津に向い走り出した。道には100m毎に石標があり、1k毎には1公里と書かれた大きめの石標があった。
日本であれば、どこどこまであと何kmとか示されていますが、中国では北京から何km来たと言う距離標しかありません。いったいあと何km走ったら目的地までつくのか判らないのです。
天津まで200K近くあり途中で腹が減って小さな店を見つけた。
それは鶏肉の店で、注文すると引き出しから鶏肉を出して来た。これは美味かった。
また途中で洋なしを売っていたので買って食べた。しかし、1時間ほど経つと腹が痛くなりました。たぶん中国の農作物は農薬がかなりかかっており、それを知らずちゃんと洗いもせず食べたから、たちまち腹痛になったようです。
そうこうしていると、もう時間は22時を過ぎてしまったので市電に自転車ごと乗り、水上公園まで来て飯店に泊った。北京と天津は電車で自由に行き来する事が出来ます。
飯店では魔法瓶を壊してしまい10元ほど余分に払った。
当時の天津は炭鉱の街で道路上に石炭のカスが広がっている。
翌日 天津を出て、万理の長城の東端の山海関を見た、その関所の大きさは凄いものでした。 渤海へ 200mほど突き出ているその場所は、明の時代に守備隊長の呉三桂が護っていたがせまる清軍との
交渉で開けられてしまい、これが明の滅亡に繋がったんだなと、そのような事を考えながら門を通った。
更にそこから北へと向かい、北たい河へ。そこは中国共産党幹部の別荘がある所であり、ひっそりとした町であった。そのあたりは乙類で許可なく留ってはいけない場所である。そこを通過して進み、唐山の手前に暗くなり近くの宿に泊った。