推し度合いは違えど応援してるアイドルさんたち何人かのメディアや舞台上での発言がいわゆる"炎上"するってことがちょっと続きました。
まぁ今に始まったことじゃないですけど、
彼らに向けられる言葉を見ていると、
・決して誹謗中傷の域には入らない、あくまで正論風な言葉を発すること
・相手(特にファンになっている対象)に対して無作為に清廉潔白を求めすぎること
・己の"正義"や"常識"は必ずしも相手のそれと一致はしないのに数の暴力で押し切れてしまうこと
・これらすべてに対して自らを疑ったり恐怖心を持つことがほぼ皆無に見えること
このあたりがとても気になっていて、
ちょっとだけ深掘りしてみようと思いました。
彼ら彼女らの発言は決してヘイトでも、誹謗中傷でもないです。
ひとつひとつを取ってみればあくまで"正論"であったり、極々私的な個人の感情でしかないと判断されるようなものばかりです。
じゃあこの"正論"が誰にとっての"正論"か、とか
そもそも正しいと思ってること自体がただしくはないのではないか、もっと辿っていったら正しいなんて概念自体存在しないんじゃないか、とか
"私"の抱くこの感情が果たしてどういうものなのか
他人にそれを晒した時にどういう違和感、誤差、が生じるのか
みたいなことって考えないのかなぁ。、と思ってしまいます。
特にその言葉を向ける対象は公人と言えども赤の他人なわけです。
他人の発言取っ捕まえて正論を勝手にぶつけたりあれこれ個人的感想をぶつけるのって、どこまでが許されるのかなって、モヤモヤしてます。
ひとつの意見が、ひとりの人と送受信されることは別になんとも思わないですけど、
こういう場合って、
ひとつの意見が集積していった果ての巨大な鉄球が
ひとりの人にガンッとぶつけられるという構図がどうしたって生まれてしまうわけです。
ファンレターだったり、事務所や番組への投書投稿ならまだしも、SNS上だったりすると雪だるま式に(暗喩のつもりはないですが。、)どんどん膨れ上がって、それぶつけられたひとりの人が押し潰されてしまうんじゃないかっていう心配があります。
キャンセルカルチャーとは厳密に言うと違うんだけど、結果的にそういう現象を巻き起こしかねないし、この場合そうなったとしても被害加害の関係が成り立ちづらいのもまた難しいところです。
そもそもの発言がいけないから言われても当然だ
私たちは彼らのために言ってるんだ
芸能人はそんな言葉にいちいち反応してたらやっていけないんだからほっとくしかない
さまざま意見はあるでしょうけど、
自分の発した言葉が雪だるまの一部になってしまっていることや
そのできあがった雪だるまが自分が本来言いたかったこととずれてしまっていないか、など、
ちょっと立ち止まる時間を作ってもいいのになって思います。
元はと言えば応援している好きな対象だからこそ、その余白は作るべきじゃないでしょうか。
SNS上で、ある対象に至極正しいことを言うことに関してはもう一つ、現代の僕たちの孤独や相互依存も関係してるのかなって思います。
間違ったことを言うことに対して極端に恐れがあったり、自分の中にある、そしてそれは自分の周りのコミュニティにも同様に存在する"正しさ"や"常識"に盲目的にしがみついていないと孤独から逃れられないある種の強迫観念。
"同調圧力"って言葉にも通じてくるこういうことって、決して否定されるものではなく、
むしろ当たり前なことだけれど、
あまりに窮屈になってしまったことで、常にその行動規範に従わなきゃならないと思い込んでしまうことはとても悲しいことだなと思います。
SNSはコミュニティの幅をグッと広げてくれるツールですし、それ自体はすばらしいことだけど、同時にそのキャパというか広さを肌感覚で掴んでおかないとあっという間に溺れてしまうなってのは強く感じるところです。
それでも依存してしまうところに、
今の僕たちの闇というか苦しみが隠れてるような気もしていますが、これは1人で考えても行き詰まるだろうなぁ。、
何か本でも読もうかしら。
SNS依存気味な現代人の虚無みたいなことを思った時にふと頭で鳴り始めた曲があります。
もう20年前の曲だけど、
この曲で切り取ってる若者感は今も結構変わらないんじゃないかなぁと思います。
"とりあえず"感と言いますか、流されてはいるけど自分は摩耗せずに持ってる、みたいな。
だから対象と共感の可能性さえあれば、誰でも当たり前のことを当たり前にSNS上に投げれる。
当たり前のことだから言ってる自分は特に減らない。沈むこともない。
そうやって孤独をなんとなく満たしながら生きている
"とりあえず"。
よくできた歌詞だなぁって改めて思いました。
共感を求めて飲み屋で歌いたいなぁ。、べべんべん