共働きの皆さん、夕飯づくりなどの家事分担はどうしていますか?いつ用意しますか?どんな手段で。ぜひご気軽にコメントいただけたら嬉しいです。

 

 私は週3日勤務だったので、週に2日は自由だった。でもずっと横になっていた。絶望していた。

 保育園のへの迎えは遅くとも18時なのだが、アラームをかけずに伏せていて携帯をみて、また時間大丈夫だと思ってまた伏して。夕飯どうしよう・・・と

 Uberが今みたいに東京でガチ普及する前のタイミングだったし、そんなお金をかけてもいけないし・・何とかつくらないと。

 ホットクックできんぴらごぼうとか作りつつ、生姜焼きつくったり、魚焼いたり。

 

 それが本当につらくなってきて、夫に夕飯づくりを一部担ってほしいとお願いした。

 別に嫌だとは言わなかったが、今回も私は夫の空気に持っていかれた。

 

 寝かしつけをして出てきて、夫が「イワシ」をさばいている。

 「いろんな味覚を経験してほしい」という夫。魚をさばくのがうまくて、イワシバーグを作っている。

 大きなため息とつきながら「あー疲れた」と聞きながら。

  

 私は、すごく自分が無能で使えないポンコツな人間だとまた自己嫌悪に落ちて、そして、夫がため息をつくたび、本当は帰宅したらゆっくりしたいのに、翌日の夕飯の用意して、風呂掃除してというタスクが増えて「●●しなくちゃ」と無意識に聞こえる様にいう。

 

 私がそれをびくびくしていた。そして、それに応じて心がざわざわしていた。

 

 私は日記を複数年で書いているが、たいてい、空白期間がずっと続くのは体調が悪化して入院するまでの期間だった。今回もそうだ。記憶を思い出していくと、大喧嘩もしていた。

 

 私が土日もずっと横になっていることが多くなってきて夫のイライラはピークにきていた。

  

 ここはずっと埋まることのない、精神疾患とその家族の関係性だが、前者はもう何の気力もなくて起き上がることもできない、そしてその意思疎通すらもできない存在である。

 しかし、家族は病気とはわかっているけれど「こっちも疲れているのにずっと寝ている」「部屋はめちゃくちゃ、昼に寝ていると思ったら、夜に様子みたら携帯いじっている、なんなんだ!」

 爆発するんだ。

 

 「いつまで寝てんのよ」夫が起こっていた。

 「こっちは、平日仕事して、土日、そっちは掃除もしないで寝ているだけ、しかもどうしたいのか、何もいわないでごはん食べたら勝手に寝て、ほんとありえないよ」夫が怒り散らす

 

 また手負いだけれど、切りかかられる。すみません、でもどうしようもないんだ。

 「じゃ、どうすればいい?」

 「お願い、私はいらいらしているあなたをみて、それにびくびくしてまたざわざわするんだよ。また同じこと繰り返すの?私をどうしたいの?」

 泣きじゃくっていた。子どもが寝た後だったと思う。

 

 「実家、帰ってくれる?もうさ、はっきりってこの家もたないよ。仕事休んで実家帰ってよ」

 

 戦力外通告来ました。

 

 「家にいてもらってもイラつくからいないほうがいいし、即戦力の実母を召喚」なのだ。

 

 また、私、駄目だったんだ。

 

 会社の人事と厚生労務の担当の先輩と面談設けられた。

 「すみません、週3がいつかでいけるかとシミュレーションまでしていただいたのにもちそうになりません」

 

 先方からは、会社が週1半日診療所にきている大学病院の精神科の医師と面談をするように言われたのと、私の主治医と会いたいとなった。

 

 「あの、、、私の通院先は入院した時の主治医が週1バイトで言っているところで、郊外で多分1時間とかかかるんですけれど、多分そこまでして来ていただいても」と言ったが

 おふたりは

 「私たち会社でできるサポートはなんでもしたいから、お願いだから一緒に行きたい」

 ということで、後日一緒に行くことになった。

 

 会社の精神科医の先生との面談。

 

 このころ、私は被害妄想というか課題解釈をしつつあった。

 そこで出た言葉がこうだった

 「わたし、離婚されたくないんです」

 先生は「??」という顔をしていた。

 「というと?」と聞かれて、たまっていた泥を吐き出した。

 

 「わたし、仕事辞めたくないんです。でも週5働ける自信がなくて週3にしてもダメで。また義母が来て、私は実家にコース。これ、夫からすると何回も再発してそのたびに自分が振り回されて子どもたちも振り回されて、それであれば、私は不要でそれこと義母や叔母(未婚)と一緒に子どもを育ててればいいってなるかもしれない。離婚してと言われてもおかしくない。その時に私は精神疾患もあるから親権もとれないんじゃないでしょうか。離婚されたらわたし終わっちゃうんです」

 

 (この時のカルテに「夫に離婚されてたくない」という執着が書かれていて、次寛解して復職したときにそのセリフを紹介されて私は大笑いしたのだった)

 

 医師からは「ご家族の問題はこちらではどうしようもないのですが、ご実家で休まれるのもいいのではないか」と言われた。

 

 そして、今度は通院先の主治医との面談。5分遅れて東京郊外のターミナル駅に着いた。もう先輩ふたりは着ていた。

 

 私の通院は週1になっていたが、これも結構つらかった。9時すぎに子どもを送って1時間くらいかけてクリニックにいって、長い待ち時間で終わるのは正午ころ。もうくたくただった。

 

 名前が呼ばれて、一緒にはいって先輩方名刺を出して

 「私たち、彼女のためなら何んだって会社でできることしたいんです。なのでどうしたらいいか来ました」

 先生は面食らっていた。

 想定通り「会社にしていただくことといえば、休養のための休暇でしょうか。。」くらいの先生の返答。

 しかし、ただただ私は、このおふたりがただ「面倒なうつ病社員抱えたので、いやいや」ではなくて、本気でできうることはないのか、ということでここに臨んでくれることがわかって、帰りの電車で一人泣いた。泣いた。

 

 それでも私の悪化は止められず「死にたい」というフェーズに入っていくことになる。