2010年に起きた大阪二児置き去り死事件がきっかけで生まれた映画『子宮に沈める』。現在新宿のK's cinemaで公開中です。

11月9日の公開初日に観て来たのですが、まだ消化しきれないまま…
それを承知の上で紹介します。

右矢印緒方貴臣監督2013年最新作『子宮に沈める』映画公式サイト

フィクションであるけれど、ドキュメントのような映像。
効果音や音楽はまったくない。

見ている側(観客)に委ねられた部分が大きい作品だと思いました。
というのは、ストーリーを咀嚼するのにかなり想像力が必要になるのです。

音楽の他に、通常のドラマにあってこの作品にないものは
・状況を説明するようなセリフ
・登場人物の心情をあらわすことば
・表情のクローズアップ


夫婦や家族の状況は見ている側が想像するしかない。
副読本(劇場で販売されているパンフレット)にストーリーは書かれているのですが、それは映像上ではっきりと提示されているわけではありません。
なので、どのようにも解釈できる。

ひとりで幼い子どもふたりを育てることになった母・由希子の状況や心境の変化は、引っ越し後のマンションの一室の状態のみで知ることができます。

ある日、大量の炒飯を作ってテーブルにおき、娘のの髪を結ってやり「いってくるからね」と部屋を出る由希子。

子どもが母親の帰りを待つ部屋は、ドアや窓にはテープが貼られ、外に出ることができません。
閉じ込められた空間で、子どもはどうするのか。

どうしても大阪の事件を想起してしまう。
子どもの様子を想像しようとしても、わたしは頭が拒否し、思考が停止しまうのです。
想像は、したくない。

子どもたちが実際どのように過ごしていたのか。
だれも知らなかった実情を、創作ではありますが、この映画は如実に描き出しています。

幸が大きな声で泣かないのは、弟の蒼空(そら)がいるからだろうか。
母親は必ず帰ってくると信じているからだろうか。
おなかが空きすぎて力が出ないのか。
ママーどこぉ~?とつぶやくように出す声。

ベビーチェア(横倒しにしてベッドにもなる)をゆらして蒼空をあやし、泣き止んだので側を離れる幸。
するともっとやって、と声と身振りで催促され、幸はまたベビーチェアの側へ。
離れるとまた催促。それが何回か続きます。
ふたりで遊んでいるのではなく、幸は母親の代わりになっている…

おなかを空かせてパイナップルの缶詰を見つけた幸は、包丁で開けようとするけれど開かない。
何日か経ったあとも、その缶を振ってみたり、膝の上に置いておいたり。

このふたつのなにげないシーンがとても印象に残っています。

密室で親に置きざりにされた子どもはどうするのか。
現実ならば誰にも見えないものを「見せた」
というのがこの映画の功績といえます。

もうひとつ考えさせられたのは由希子と友人の関係について。
引っ越し後、夜にマンションの部屋に訪れてきます。
彼女の紹介で由希子は夜の仕事をはじめるようになるのですが、
訪ねて来たときには泣いてぐずる蒼空を見ても友人は「かわいい」「わたしも子どもほしい」
そして自分と他の友人の話しかせず、由希子の切羽詰まった状態にはまったく気づきません。
たいへんだね、がんばってるね、とかいうことばが出ることはなく、そういう相手を慮ることすら気づいていないようにみえます。

由希子はこのときはひとりで懸命に育児をし、医療事務の資格を取ろうとしていますが、友人の前で愚痴ることもSOSを発することもない。
自分の状況に気づいていないようにも見受けられます。

携帯電話に誘いが入り、早々にいなくなる友人。
自分の言いたいことだけを言い、由希子の中にざわめきだけを残し去っていったようにみえました。

ふたりの関係がもともとそうなのか、自分の気持ちを表現することができないのか、相手の状況を思いやることには慣れていないのか…?

人と人とのコミュニケーションってなんだろう、という思いも湧きあがります。

橙  pyon*  橙  pyon*  橙  pyon*  橙  pyon*

上演終了後、由希子役を演じた伊澤恵美子さん、由希子の夫役の辰巳蒼生さん、ホスト役の田中稔彦さん緒方貴臣監督の舞台挨拶がありました。

とりわけ印象に残ったのは、この映画は「十人いれば十人の見かたがある」ということばです。

『子宮に沈める』というタイトルについて、緒方貴臣監督はインタビューの中でこのように語っています。

「母性」というものを作り出した社会が、お母さんたちをその「母性」に沈めている、閉じ込めている、ひとつにはそういう意味で受け取ってほしいなと思っています。(『子宮に沈める』副読本より)

右矢印映画『子宮に沈める』Twitter@sunkintothewomb