学問というのは素晴らしいもので、その分野だけでなく受け取り手の考え方次第で、無数の解釈やそこから人生への気づきを与えてくれる。


しかし残念なことに、自分は活字がとても苦手で興味のない分野の本を知り合いから勧められたりしたとしてもなかなか読もうという気にならず、無理してそんなものを読もうものなら途端にアレルギー反応が出て気がついたら本から手を離してしまっている。


つまり何も考えずに生きていれば自分は今までの人生のなかで一度も自ら本を開こうとしなかったのだろうけれども、あくまで興味のない分野と前述したように自分が興味を持つきっかけがあれば話は別で、そのきっかけとなる多くは現代文の問題であった


現代文出題する側がどのような学生を欲しているかという意図が特に問題に顕現すると感じており、例えをあげると天下の京都大学は論理的思考能力に長けている学生を欲しているようでこれは数学の問題で求値問題よりも証明問題を出すという傾向にもよく表れていて、同値関係が崩れるような式変形を検討もせずに平然と書き連ねるような学生はいらないと暗に示している。

ではこれが現代文に関してどのように反映されるのかというと、簡単に言えば語彙や国語力そのものというよりかは、文章の骨組み・構成を捉えることができればいいという傾向があると私は見ている。なので

筆者の主張を読み解き、理解し、明言されていない部分を自身の語彙力の及ぶ範囲内で言語化するという必要はなく、下線部の一見すると何が言いたいのかさっぱりな文章を詳しく説明している、長い文章のいたるところにちりばめれたセンテンスを拾ってきて過不足なく言い換えられれば高得点が狙えるという出題方式である。(断っておきたいがこのような講評をするお前はさぞ国語力に長けているのだなという質問については全力でNOをかえせるほどに私は自分の学力に対しては自信がない)


またこれとは逆の、つまり筆者の主張の1を聞いて10を知り、それを自分の言葉で言い換えろという出題方式をとる大学も多く存在しており、例えばこれまた天下の北海道大学がその例である。

私はどちらかと言えばこういった国語力をとう問題のほうが苦手であり、そういった問題を解くときには自身の推測が正しいことを祈って答案を作るしかない。

しかし、この方式には一つ個人的に良いと思う点があり、それは筆者の主張をより細部まで掌握して自分の人生における価値観に組み込むことができるという点である


言い換えれば、現代文はただ入学試験の問題を解くだけでもを通じて色々な考え方を吸収するきっかけとなり、人生を大いに豊かなものにしてくれるものだと私は感じている。


その一例として2018年の北海道大学の出典、「ダ・ヴィンチの蝶」という文章を紹介したい。


この試験で抜粋された範囲を要約すると、15世紀のイタリアで流通していたフローリン金貨というのは、それまで具体的に可視化したり数値化することのできなかった芸術家に対する名声を客観的に評価することのできるものであり、芸術家はこぞってこの小さな、しかし見た目よりもはるかに重いものを求めていた。

そこには名誉への渇望や激しい嫉妬と競争、あくなき承認欲求など様々な感情が渦巻いていたことであろう。

ダ・ヴィンチも実際この例に漏れず、手記には彼が絵を描く報酬として得るはずだったブドウ畑の価値を嬉々として計算していたことが伺える記述がのこっている。

勘の良い方なら気づくかもしれないが得るはずだったというように実際にはこの土地は、封建領主の争いによって遂に彼の手中に収まることはなかった。

彼は相当このことに関して嫌気が差しただろうが、彼は作品を作り上げるということに関しても同じような感情を抱いていたようである。というのも彼は被差別者としての生い立ちを背負っていたゆえにこのように自身の価値を絶対的に評価してくれるものを手にしようとする感情は人一倍強く、わかりやすく言うならば果てることのない承認欲求を自身の内に抱えていたがために、つよい不安や焦燥に駆られ次第に作品を完成させることができなくなっていった。


このような事情はかれにあるつよい感情を抱かせた。

それは蝶のようになりたいと言うことだ。

蝶というのは不思議な生き物でつい最近まで地べたを醜く這いつくばっていた芋虫が、いつの間にか自由で軽やかに大空に舞う優雅な存在へと変貌を遂げるのだ。

彼は自身の状況をこれに当てはめたかったに違いない。果てしない承認欲求に苛まれる醜い己がいつか空へと羽ばたく…この俗世から大翼をもってして解放されたいと、そう願っていた。



こんなに素敵で残酷で、鮮明に伝わってくる感情の推測を文章に載せられてはただただ見入るしかない。


SNSという本来見えることのない高みを容赦なく我々に見せつけてくる劇薬がこの世に存在する今、この文章から感じたことを自分の中に置いておくだけでも、この人生を生きるということに大いなる手がかりになると私は信じている。

この文章との出会いが、世の中が生きづらいと感じる人の生きる助けとなるきっかけとなるならば、私にとってこれ以上嬉しいことはない。