549「」ゆるゆるキリスト教雑記帳

ゆるゆるその1
いつも最初にお断りしているのですが、内容は私の極めて独断による見解ですので、ご了解ください。なお、聖書の訳は協会共同訳を使用しています。

聖書語なんて、そもそもあるのかという人がいるかも知れません。ごくごく普通に日常的な日本語となっている言葉は、じつは聖書の言葉から来ていることが多いのです。鈴木範久さんの「聖書の日本語」岩波書店を参考しましたが、実に多いことが分かります。
文学作品に与えた影響ですが、「○○の黙示録」と題された作品は多いです。ちょっとだけ自慢しますが、私は中学校国語科教員免許を持っています。そういうこともあり、日本の文学作品を多少読みました。聖書語は実に多く使われています。

有名な作品をいくつがあげます。
石川達三「風にそよぐ葦」マタイ福音書11章7節から、すぐに主張を変える生き方を表現している。福永武彦「草の花」ペテロ第1、1章24節から、人の人生のはかなさを表現している。島尾敏夫「死の棘」コリント第1、15章56節から、文字通りこの世に生きている人間の苦しみを表現している。大江健三郎「洪水はわが魂に及び」旧約聖書ヨナ書2章、巨大な魚に飲み込まれた主人公ヨナが神に反省して祈ることから、悔い改めることを表現している。芹沢光治良(こうじろう)「狭き門より」もともとマタイ福音書7章13節から、今では入試や入社などで難度の高い試験を形容するのに使われている。
などなど、挙げていくともっとたくさん見つかります。

ゆるゆるその2
日本語になった聖書語は、あまりにも日常使われるようになったので、意識していない場合が多いです。いくつか取り上げていきます。
*「目からウロコ」、言葉の意味として、ある機会に急に物事が見えだしたり、理解したという心象を残す事態をいいます。読めば直ちに理解できるという意味で、書物の題名や宣伝にも使われています。出所は、新約聖書使徒行伝9章18節から、キリスト教徒を迫害していたパウロが回心した時に、目からウロコのようなものが落ちて再び見ることができたことによっています。
*「〇〇のバイブル」、バイブルというのはキリスト教の聖書の意味です。そこから、料理のために必要不可欠の本であるという意味で「料理のバイブル〇〇」というように使われています。
*認知症治療の福音となる〇〇薬が発見された、というように嬉しいニュースを表す意味で使われている「福音」ですが、福音書の福音の意味から来ています。福音の原意は「良い知らせ」「グッドニュース」「嬉しいニュース」と意味で、ピッタリの表現ですね。
*苦境や危機に陥った企業や、団体、はては試合で負け続きに陥ったチームを立て直し、流れを変え、救った人物に対して「〇〇の救世主」と言ったりします。「救世主」というのは、世の人を救済するために現れたのが、イエスであり、普通名詞であった「救世主」の原語がキリストであったので、イエスは救世主であるという意味で、イエス・キリストという固有名詞になったのです。
*スポーツニュースなどで「新人の〇〇選手がプロの厳しい洗礼を受けました」と言われることがあります。あと、社会に出て、はじめて大きな経験をして影響されるときにも使われます。これは、キリスト教に入信するときの儀式である「洗礼」から来ています。洗礼は、人生の大きな転機になりますね。

*ゆるゆるその3
聖書語の「愛」ですが、キリスト教の愛、聖書に日本語訳されている「愛」については、3種類の愛が区別されずにひっくるめてすべて愛と表現されている問題については、以前も触れました。愛には「神の愛」「精神的な人同士の相互愛」「感情的、肉体的な愛」の3種類があるのです。キリシタン時代、神の愛を日本語に訳すのに困ってポルトガル語のそのままに「カリダアデ」を用いたり「お大切」と訳したりしていたのです。
もともと仏教用語に「愛」というものがありましたが、煩悩としての愛、欲望の根源である渇愛、本能としての愛欲、というように否定的なものとして愛がとらえらていたのです。
一種の低い卑しい意味でとらえられていたのです。それが、聖書語としての「愛」、「汝の敵を愛せよ」「人を愛せよ」というように、崇高な、高尚な意味へととらえるようになったのは、キリスト教が広めた聖書語の影響だと考えています。