548「イエスか?イエズスか?共同訳聖書」ゆるゆるキリスト教雑記帳

ゆるゆるその1
いつも最初にお断りしているのですが、内容は私の極めて独断による見解ですので、ご了解ください。なお、聖書の訳は協会共同訳を使用しています。

私が好きな聖書は何かといえば、色々ありますが「新約聖書、共同訳」です。「旧約聖書、共同訳」は作られなかったのは残念です。つくってほしかったです。現在は講談社学術文庫に入っています。戦後、学校教育で「新かなづかい」と「漢字制限」がなされ、つまり口語体とやさしい漢字の日本語教育が行われようになったのです。聖書も誰もが読むことができる民衆の書物であるべきだという主張が多数派となり、口語訳聖書が作られたのです。日本聖書協会から1954年「口語新約聖書」1955年に「口語旧約聖書」が刊行されました。
ところが、口語訳聖書には批判が多かったのです。批判の主なものとして、口語訳聖書には荘厳さがない、気品の高さがない、文学的な香りがない、というものでした。ようは、有り難みがないというものですね。文語訳には有り難みがあるが、口語訳には有り難みがないというわけです。
また、聖書学の進歩もあり、口語訳聖書を改訳しようということになったのです。さらに、カトリック教会とプロテスタント教会が協力して共同訳聖書をつくろうということになり日本聖書協会から発行することになりました。翻訳者はカトリック教会から11名、プロテスタント教会から31名という大世帯でした。

ゆるゆるその2
固有名詞翻訳に際しては、3原則が定められました。
1,原語の発音になるべく近く表記する。
2,つとめて読みやすく、発音しやすく表記する。
3,地名の表記については、必ずしも原語によらず、慣用を尊重する。
翻訳理論は、動的等価訳を用いることになりました。動的等価訳というのは、元の原語で表現されているメッセージと、まず意味内容で、次に文体において最も自然に対応する言語、つまり日本語で産み出すことであるという理論です。
当たり前といえば、当たり前の理論なのです。まあ、一言で言えば、分かるように訳す、つまり意訳をするわけです。
これらの原則に基づいて、カトリック教会が使っていた「イエズス」やプロテスタント教会が使っていた「イエス」は、「イエスス」とされました。しかし「キリスト」は「クリストス」とされずに、地名に掲げられている慣用の原則が適用されて「キリスト」とされました。
1978年に「新約聖書共同訳」が完成、発行されました。動的等価訳がよく分かるのが、「マタイオスによる福音」5章3節から始まる山上の説教、「幸い」についてです。マタイではなくてマタイオスというのが良いです。私は好きです。以下引用すると、
*ただ神により頼む人々は、幸いだ。天の国はその人たちのものだから。
*悲しんでいる人々は、幸いだ。神がその人たちを慰めてくれるから。
*耐え忍ぶ人々は、幸いだ。神がその人たちに約束の領地をくださるから。
*御心にかなう生活に飢え渇いている人々は、幸いだ。神が満たしてくださるから。
*あわれみ深い人々は、幸いだ。神のあわれみを受けるから。
*心の清い人々は、幸いだ。神を見るから。
*平和を実現する人々は、幸いだ。神の子と呼ばれるから。
*御心を行って迫害される人々は、幸いだ。天の国はその人たちのものだから。
*わたしのためにののしられ、迫害され。さらに、ありもしないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたたちは幸いだ。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いが、あなたたちを待っているから。かつての預言者たちも、同じように迫害されたのである。
素晴らしい訳ですね。これまでは「心の貧しい人々」と訳されるのが普通でしたが、原文の意味を綿密に検討し、また日本語訳としての表現として的確であるかどうかを熟慮して、形式ではなく内容を取る訳文になっています。その結果「ただ神により頼む人々」となっているのです。
私なら、さらに一歩進めて「神の助けのみが生きるよりどころである人々」という訳にします。「神の助けのみが生きるよりどころである人々は、幸いである」とします。「心の貧しい人々」では単に精神的に貧しい人々という意味になってしまいます。内容的に文脈にあう訳でなければだめでしょう。意訳と言っても、主観的な意訳と、客観的な意訳があるわけですが、客観的な意訳をするのが動的等価訳ですね。
「御心にかなう生活に飢え渇いている人々は、幸いだ。」という訳も最高です。口語訳では、「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである」でした。「義に飢えかわく」ではなんのことやらさっぱり分かりません。
「御心を行って迫害される人々は、幸いだ。」という訳も最高です。口語訳では「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである」でした。「神の御心」というのが、「義」のことでしょう。そもそも「義」とはなんぞやということになるのですが、いちいち説明をしなければ分からないような日本語を使うな、と私は言いたい。

ゆるゆるその3
「形式より内容」という動的等価訳は、教会外の人にも分かりやすい日本語訳聖書をつくりだしたのですが、教会関係者からはブーイングが起きたのでした。「義」は「義」いいのだ、キリスト教的含意があるのだ。それを、だれも分かるような言葉にするなどとんでもない、分かりにくいから有り難みがあるのだというわけです。
その結果、動的等価訳理論が放棄されて、動的等価訳に基づいた旧約聖書の日本語訳はつくられないことになりました。
最初からやり直しということになって、1987年に「聖書、新共同訳」がつくられたのでした。動的等価訳に基づいた旧約聖書の日本語訳がつくられなかったのは、かえすがえす残念だったと考えています。