542「神の正しさを問わなければならない!」ゆるゆるキリスト教雑記帳

ゆるゆるその1
いつも最初にお断りしているのですが、内容は私の極めて独断による見解ですので、ご了解ください。なお、聖書の訳は協会共同訳を使用しています。

旧約聖書ヨブ記は、諸書の一つで神とは何かを考える文学教材ですね。とりわけヨブ記は、信仰深く善人である主人公ヨブがサタンにそそのかされた神によって、悲惨な目に遭うという物語です。ヨブは、最後になんで俺はこんな目に遭わなければならないのだと、神を問いただすのです。そのクライマックスが42章です。
ヨブ記の42章は1節から6節はヨブの神への回答、7節から16節は結びとなっています。
ヨブの問いかけに対して、何をどのようにしようと、俺様の勝手だろうと神は回答します。その回答に対して、40章4節で「私は自分の口に手を置きます。」とヨブは全面降伏するわけです。ヨブが全面降伏したのにもかかわらず、それでも神は41章で何でもかんでも俺様の勝手だろうとわめきます。それを受けて、42章2節で「あなたはどのようなこともおできになり、あなたの企てを妨げることはできません。」とヨブはさらに全面降伏するわけです。

さらなる神の問いかけに対して5節で「私は耳であなたのことをことを聞いていました。しかし今、私の目はあなたを見ました。」とあるように、神の言葉を聞いただけでなく、神を見て対話をした結果6節「それ故、私は自分を退け塵と灰の上で悔い改めます。」と言って、さらに全面降伏するわけです。
誰だって、神の声を聞いて神を見たら、ご無理ごもっともというようにならざるを得ないですね。逆に言えば、神の声を聞き、神を見ることがなければ、ご無理ごもっともとはならいということです。神との応答がなければアカンということでもあるのです。

ゆるゆるその2
結びの7節で、テマン人エリファズに神は言います。「私の怒りがあなたとあなたの二人の友人に向かって燃え上がる。私の僕ヨブのように確かなことを私に語らなかったからだ。」と叱って、焼き尽くす生贄を献げよ命じます。「ヨブのように確かなことを私に語らなかったから」と言う理由ですが、「確かなこと」とは、どういうことかが問題になるのです。ヨブは正しいことを語り、エリファズなどは間違ったことを語ったとは、神は言っていなのです。ここがミソですね。

神の正義、正しさを問うことは「確かなこと」だと言っているのです。神は正しいに決まっているとすることは、「確かなことではない」と言っているのです。人間が神の正しさを問うことはなんら問題はない、神は絶対的に正しいというわけではない、正しくないと問いただしてよいのだ、と言っているのです。エリファズたちは、神は絶対的に正しくて間違えないと考えている。神は絶対的で正しいから、人間は神はいかに正しいかを弁明、弁護しなければならないと考えている。

神にしてみれば、俺様は全知全能の神であるから、何をしたって自由なのだ、全知全能の神を人間がごときに弁明や弁護をしてもらう筋合いはない。しかしなあ、ヨブのように全知全能の神に対して文句というヤツはかわいいヤツだ。オマエらもなあ、ヨブを見習って、神に文句の一つも言える人間になったらどうだ、というわけですね。

ゆるゆるその3
神は、ヨブが友人たちのための神へのとりなしの願いを聞き入れます。その後、神は、ヨブの繁栄を回復するわけです。この後、ヨブが苦しんでいる時には見放した、兄弟姉妹、親戚縁者、友人、知人たちが、ヨブが再び繁栄すると食事をしにやってきて贈り物までするのです。現金な人たちですね。人間とはそんなものだという、ヨブ記の著者の冷ややかな目がありますね。単純なハッピーエンドにはしていないのです。

ヨブの財産だって2倍にしかなっていないのです。ヨブの子供にしたって、死んだ息子や娘は死んだままです。そして、死んだ息子や娘の数だけした回復されていないのです。財産は2倍になっているが、子どもたちは2倍になっていません。子どもたちは財産より軽いというわけです。
単純なハッピーエンドにはしないというのが著者の狙いですね。

ゆるゆるその4
もし神が、ヨブの問いに対して、まともに真面目に少しでも答えていたとするなら、悪魔にそそのかされてやってしまったとでも答えたならば、人間に起こったことに神は責任を取らなければいけなくなるのです。そんなことをし始めたらきりがなくなるし、人間の主体性というものがなくなりますね。神は「なぜですか」という問いには答えないのだ。
また、本当のところは答えたくないのだ。本当はどうなのかは、人間が想像しろということですね。悪魔が言ったから等と言ったら、なぜ神はそんな悪魔をつくったのですかという問いに答えなくければならなくなるのです。説明できるくらいなら、はじめから悪魔をつくらなければよいのだと言う話になるのです。

人間の苦難一般については合理的な説明は神から与えられないということを、著者は言いたいのかもしれません。神は人間にとって良いこともするし、悪いこともするのだ、神が人間にとって悪いことをしたなら、生贄をささげてご機嫌を直してもらえばよいというのが、ユダヤ教の本質だと著者は言いたいのかもしれません。ヨブ記は読めば読むほどおもしろいです。まだ読んでおられない人はぜひぜひお読みください。