540「アダムとエバ、男女平等の原点!」ゆるゆるキリスト教雑記帳

ゆるゆるその1
いつも最初にお断りしているのですが、内容は私の極めて独断による見解ですので、ご了解ください。なお、聖書の訳は協会共同訳を使用しています。

創世記などのいわゆるモーセ五書はユダヤ教の律法の書なのです。律法が書かれているのです。キリスト教はユダヤ教の分派ですから、大きな影響を受けています。男女は平等であるという律法観も引き継いでいます。ただ、旧約の律法と言っても、祭司文書、ヤハウィスト文書とかいろいろ混ざっていて革新的なものから保守的なものまでいろいろあるのです。創世記1章は祭司文書と言われる創造記事です。
27節に「神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し男と女に創造された」祭司文書では、男と女は同時に造られたとあります。男と女は神のかたちですから平等だというわけです。
創世記2章は、ヤハウィスト文書と呼ばれる創造記事です。創造記事には2種類あるのです。7節に「神である主は、土の塵で人を形作り、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。」人は土の塵から造られたもので、素材には価値がない、価値のない者から造られた、よって人間の価値は、労働と神の命令に対する応答によって決まるとされます。15節に「神である主は、エデンの園に人を連れて来て、そこに住まわせた。そこを耕し、守るためであった。」とあるように、エデンの園は、果樹園のイメージ化されたものですね。人は果樹園労働者になるのです。エデンの園のイメージは働くことのない天国のイメージとは異なるのです。
17節に「ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる。」と神に命令されるのです。
人は、自分にふさわしい助け手を見つけることができなったので、そこで、神は人を眠らせて女を造ります。22節に「神である主は、人からとったあばら骨で女を造り上げ、人のところに連れてこられた。」
とあります。

ゆるゆるその2
さて人は、眠りから覚めると女がいるのです。女は目覚めていて人を見ているのです。観察しているのです。どの程度の人かを観察していたのですね。23節で「これこそ、私の骨の骨、肉の肉、これを女と名付けよう。これは男からとられたからである。」男の方は、女を自分と一体化したものと考えているのです。女の方は、一体化したものとして考えていたかどうかは書かれていませんので、どうなんでしょうか。
24節が、最重要な箇所です。「こういうわけで、男は父母と離れて(別訳、残して)妻と結ばれ、二人は一体となる。」
とあります。古代社会だけではありませんが、現代社会でも未だに家父長制社会が世界各地で見られます。家が社会の基本的な単位であって、その家長は父親であるのが普通です。ヤハウィスト文書を書いた著者たちは、父母から離れることが、男と女が一体化することなのだと言っています。家原理を否定しているのです。夫婦は、男と女は家という血縁集団から精神的にも経済的にも自立しなさいと言っています。自立しないと、夫婦という共同体はできないといっています。家父長制度を否定しているのです。男と女は平等で家庭をつくりなさいと言っているのです。

ゆるゆるその3
3章は、ヤハウィスト文書と言われているもので、蛇が登場して、男と女が誘惑されて善悪の知識の木の実を食べる話になります。著者たちは何を言いたいのかというと、私は男女平等だと言うことですね。神が命令を聞かなった理由を尋ねます。
12節に「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、その妻が木から取ってくれたので私は食べたのです。」と人は答えます。13節に「蛇がだましたのです。それで私は食べたのです。」と女は答えます。
善悪の知識の木の実を食べたから、男も女も責任転嫁ができるようになったのです。男は女のせいだ、その女は神が与えたものだ、責任は神にある、というわけです。女は蛇のせいだ、その蛇は神がつくったものだ、責任は神にある、というわけです。
22節が、その結論ですが、神は「人は我々の一人のように善悪を知るものとなった。」と言って、永遠に生きることがないようにするのです。エデンから追放されて、土を耕すものとされるのです。土を耕すものというのは、労働して食べていけということですね。
男も女も善悪の知識を生かして、自立して、協力して生きていけということですね。