538「旧約、神は人間と対話する!」ゆるゆるキリスト教雑記帳

ゆるゆるその1
いつも最初にお断りしているのですが、内容は私の極めて独断による見解ですので、ご了解ください。なお、聖書の訳は協会共同訳を使用しています。

旧約聖書、とりわけ最初の五書はモーセ五書とよばれています。何が書かれているかというと、ユダヤ教の律法が書かれているのです。ユダヤ教の律法とはなにかと言えば、神が人間に対する約束、人間が神に対する約束が書かれているのです。
創世記9章には、ノアとの契約が書かれています。「産めよ、増えよ、地に満ちよ・・」ではじまる有名な神のノアとの契約が書かれています。
なぜ、そのような契約を結ぶに至ったかについては、8章21節にこうあります。方舟によって生き残ったノアたちは祭壇を築いて、家畜と鳥を選んで焼き尽くして生贄として神に捧げるのです。
*主は宥めの香りを嗅ぎ、心の中で言われた。「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。この度起こしたような、命あるものをすべて打ち滅ぼすことはもう二度としない。
神に宥めの香りを嗅がしたから、神が心変わりをしたとも言えますね。だからか、ユダヤ教では神殿で生贄を焼き尽くして、香りを神にささげる儀式が起きたとも言えますね。
ノア以外の人間を滅ぼしてはみたものの、人間は幼い時から悪い存在であり、本質的に悪人なのだ。しかし、今後はすべてを打ち滅ぼすようなことはしないと神は考えたのです。人間は本質的に悪人であるから、律法が必要なのだというわけです。
私の後ろには、平和云々と言うポスターが貼ってあります。平和実現は必ずできるというのは幻想ですね。理想というものは実現できないもだと言って、理想を捨ててはいけない。本当の理想主義者というのは、理想に限りなく近づいていこうとする運動を絶えず行う者のことを言うのです。日本の憲法9条は、建前、理想なのです。現実、本音には自衛隊があります。本音に即して憲法改正をしてよいかというと、あきません。9条は建前として運用すればよいので、平和主義の理想は捨ててはいけません。朝鮮戦争が起きた時に、アメリカから憲法を改正して戦争参加を求められたときに、9条を盾に参加を断りました。自衛隊をアメリカ言いなりに戦争に参加させてはいけないのです。

ゆるゆるその2
旧約の神とはいかなる存在なのかということですが、「すべてを打ち滅ぼすようなことはしないと神」であるわけですが、「一部を打ち滅ぼす神なのです」そのことは、創世記18章16節からの、「アブラハムの執り成し」でよく分かります。19章にソドムの滅亡の話に続いていくわけです。神は、ソドムとゴモラの町の罪は極めて重いのでを滅ぼそうとします。アブラハムは、ソドムを滅ぼそうとする神に執り成しを行います。アブラハムは、ソドムに五十人の正しい者がいるなら、ソドムを滅ぼさないでと言います。神はその願いを聞き入れます。そこで、アブラハムは正しい者が四十五人いたら滅ぼさないでと言うと、神は聞き入れます。そこで、アブラハムは四十人ではどうか、三十人ではどうか、二十人ではどうか、十人ではどうか、というように、いわば十人まで値切っていくのです。ここで神との交渉を止めるのですが、この論理で行くならば、五人では、一人ではというところまでいかなければならないわけで、十人という中途半端なところで値切り交渉が終わっています。
アブラハムがなぜ十人でやめたのかという理由が書かれていません。十人くらいが限度だと、妥協点だと考えたのでしょう。いずれにしても、神は人間の説得によって考えを変えるわけです。神は人間の説得に応じることもあるというわけです。この世界は、神が考えたように、一度考えたら変更ができないという、いわば宿命、運命の変更はないのではない。交渉によって、対話によって、宿命や運命の変更もありうることを言っているのです。

ゆるゆるその3
神との対話によって 宿命や運命の変更もありというのがよく分かるのが「ヨナ書」です。ヨナは、神からアッシリアの都ニネべに行って滅ぼすと神が預言していると言うように命じられます。断って逃げるのですが、逃げきれずにニネべに行くことになります。ニネべで滅びるという預言をすると、王をはじめ、皆が断食をおこなって反省して、滅ぼさないように、思い直すようにと神に願うのです。皆が悔い改めたので、神は思い直して滅ぼすのをやめるのです。ヨナはすねるのです。「あれだけ決死の覚悟で滅ぼすと預言したのに、言ったことと違うではないか、どうしてくれのだ」というわけです。
預言者がすねて神に文句を言うと、神はヨナをなだめるわけですが、神は人間と対話する存在であるというのが、旧約の神であると考えています。