537「旧約、神と人間は対等だ!」ゆるゆるキリスト教雑記帳

ゆるゆるその1
いつも最初にお断りしているのですが、内容は私の極めて独断による見解ですので、ご了解ください。なお、聖書の訳は協会共同訳を使用しています。

旧約聖書、ユダヤ教では聖書そのものですが。旧約と言われるように古い約束、契約が書かれています。イエスの約束、契約が新約と言われるものです。新約を理解するには旧約を理解する必要があるのです。旧約聖書の最初の5つがモーセ五書とよばれていて、モーセによる律法が書かれています。つまり古い約束、契約が書かれているのです。神と人間との約束、契約は対等である関係から生まれることが分かります。
創世記1章に神が意思を示してつくっていったと書かれています。1日は日没から始まり次の日の日没までであり、翻訳では「第1の日」と訳されていますが、注に、直訳は「1日」とあります。1日、1日というように、その都度その都度、神が意思を示して、天地をはじめとして創造したとあります。自然になりゆくことの否定を行っています。
27節に
*神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し男と女に創造された。
この箇所は、新改訳2017は、原文に忠実で、
*神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。
とあります。つまり、創造主は、神はただの人をつくったのだ。ただの人が神に似ているのだ。神は、ファラオ、皇帝、王様などをただの人と同様につくったのだ、特別につくったのではない、というわけです。現代的な言い方をすれば、人権尊重、人間の尊厳の重視となります。さらに、原文に忠実に読むと、「彼ら」ですから、人間は「彼ら」という複数の存在としてあるのだというわけです。世界には、この世には、はじめからいろんな人がいる、その一つがイスラエルの先祖のアブラハムだ、なにも特別な存在ではないということになります。
26節には、
*神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。・・・・・」
「我々」には、多様な解釈がされていますが、新約の解釈の三位一体論から言えば、父と子と聖霊を指している、人間はイエスのかたちにつくられている、ということにもなりますね。人間は神のかたちにつくられている、よって神の言いなりにはならない、反抗することもできる、神と対等であるから、何でもしようとする、それがたとえ悪であったとしても自由にできる、でもねえ、神の方も人間に対して、好きなようにできるんだということも意味しているのです。

ゆるゆるその2
ユダヤ教に基づくのがユダヤ人ということになるのです。ユダヤ教の律法を受け入れるのがユダヤ人というわけで、モーセの十戒から始まる律法を守るのがユダヤ人というわけですね。申命記5章の7節がその根幹で、
*あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。
昔の文語訳では、「汝、わが顔の前に何物をも神とすべからず。」というように、わざわざ「顔の前に」と訳されていました。協会共同訳では、「面前で、顔の前に」というように、「顔の前に」というのは、ただ「前に」という意味だからということで略しているのですね。ただ、これは神と人間はフェイスツーフェイスの関係にあるのだというのが分かりにくくなっています。
わざわざ、私以外に神々があってはならないと命じるということは、私以外の神を選ぶのも自由だと言っているわけです。選ぶのも選ばないのも自由だが、9節、10節に「・・私を憎む者には、父の罪を子に、さらに、三代、四代まで問うが、私を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって慈しみを示す。」とあるように、愛するものは慈しんでやって良い目にあわしてやるぞ、と言っています。憎むものはひ孫の代までで、愛するものは幾千代で得するぞ、と言っています。人間に愛されたいのなら、そのようにはじめからそのようにつくってしまえば、そのようにつくればよいのです。
ところがそうではないということは、愛さない自由も認めているということなのです。愛さない自由も認めておいて、愛するとこんなにお得ですよ、と言って愛する事を勧めているのです。

ゆるゆるその3
さて最初に立ち返りますが、神と人間はタイタイの関係で、その関係は契約関係にあるということです。創世記6章に「ノアの洪水」の話の最初に、神の子らが、人間の娘たちを妻にしてネフィリムとよばれる者が生まれ、人の一生は120年となったとあります。その後、神の子やネフィリムや人間たちは堕落したので、すなわちノアの家族以外は洪水によって滅ぼされたとあります。神との契約を破ったから滅ぼしたのだというわけですね。この世界は一度クリアされたと言っています。クリアされても、ノアの子孫たちの中には相変わらず、契約を守らず堕落していく者が出てくるのです。これなども、神と人間は契約を通じて対等な関係でありつづけたということを意味していますね。
さて、ユダヤ教の一分派としてスタートしたキリスト教の場合は、新しい契約と神と人間との間に取り交わしたと考えるわけです。その場合の新しい契約の中身はどのようなものであるのか。次回、考えていきます。