534「パウロは女性差別論者ではない!」ゆるゆるキリスト教雑記帳

ゆるゆるその1
いつも最初にお断りしているのですが、内容は私の極めて独断による見解ですので、ご了解ください。新約聖書の訳は岩波新約聖書改訂新版を使用しています。

新約聖書の書簡類でパウロの弟子が書いたとされる擬似パウロ書簡まで含めると圧倒的分量をもっているのはパウロ書簡です。このパウロ書簡を読むと、パウロはいかに女性差別論者であるかが分かります。しかし、よくよく読めば、はたしてこんなことを本当にパウロが書いたのか疑う内容のものがあるのです。前後の内容から考えると写本を作る際に改竄されたのではないかと思われる箇所があるのです。
これは以前にも触れたのですが、ローマ人への手紙16章の「教会人への個人的挨拶」7節に、
*私のユダヤ人の同胞であり囚人仲間であるアンドロニコスとユニアによろしく、と挨拶するように。彼らは使徒たちのなかで秀でており、私より先にキリストのある者となった人たちでもある。
注に、定本では正しくユニアという女性名になっている。ただし、旧版の定本は27版まで、ユニアスという男性の名前を採用していた。・・・・
この件に関しては、以前詳しく書いたのですが、ルターはドイツ語訳をつくった際に、男性名にしたことが一因なのです。ルターは必ずしも男女平等論者ではなかったのです。ルターの影響を受けたプロテスタント教会は、パウロが女性を使徒たちのなかで秀でているはずがないと考えのでしょう。

ゆるゆるその2
パウロが女性差別論者である証拠としてあげられるのが、テモテへの第一の手紙2-11~15の「女性信徒に対して」の箇所です。もっとも、このテモテの手紙は擬似パウロ書簡とされて、パウロの弟子が書いたというのが定説です。
*女は静かに、男性聖職者にことごとく従属しつつ学ぶべきである。女が教えることを私は許さないし、また男に指図することも許さない。むしろ静かにしているべきだ。なぜならアダムが最初に造られ、次にエバが造られたからである。しかもアダムは騙されなかったが、女はすっかり騙されて神の掟を逸脱した。しかし女は貞淑さをもって信仰と愛と聖らかさに留まり続けるならば、子を産むことによって救われることになる。
ゴリゴリの福音派は、聖書は神の言葉だ、間違いはないと言って、この箇所を女性の信徒に本当に言うのでしょうか?
パウロは、男女平等論者らしいのは、ガラテヤの信徒への手紙3章28節の有名な箇所に曰く、
*もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく。男性も女性もない。まさに、あなたがたすべては、キリスト・イエスにおいて一人なのだから。
男女平等、まさしく人類みな兄弟姉妹という宣言ですね。
いやそんなことはない、パウロは女性差別論者だとして必ず出されるのが、
「コリント人への第一の手紙」14章33~35「教会における自制の沈黙?」です。
*聖なる者たちのすべての教会においてそうであるように、女性たちは教会においては黙りなさい。というのも、彼女たちには語ることがゆるされていないからである。むしろ律法も命じているように、彼女たちは服従しなさい。もしも彼女たちがなにか学びたいと欲するならば、家で夫にたずねなさい。女性にとって教会において語ることは恥ずべきことだからである。
注に、この部分は、ほぼ確実にパウロ以降の挿入であると思われるが、ただし異論あり、その理由については、補注「女たちへの沈黙命令」を参照。
補注に詳しい説明があります。ほとんどの聖書学者は、「テモテへの手紙」を受けた書紀が写本を行う際に挿入されたと考えています。現存する写本には40節の後ろに挿入されたものも多く存在するのです。パウロはもともとこの女性差別丸出しの箇所を書いていない可能性が高いのです。
同じく「コリント人への第一の手紙」11章の「礼拝における頭の覆いについて」男性は頭に覆いをして祈ってはいけない、女性は頭に覆いをして祈るように言っています。
3~4節で理由として
*しかし私は、すべての男性の頭はキリストであり、女性の頭は男性であり、キリストの頭は神であるということを、あなたがたに知ってほしい。
と言っていますが、今ひとつ意味が分かりませんね。まあ、当時の習慣、習俗だったので従いなさいということですね。
11~12節で、
*いずれにしても主にあっては、男性なしに女性はないし、女性なしには男性はない。女性が男性から生じたものであるように、男性もまた女性をとおして生じたものだからである。しかし、すべては神から生じたのである。
と言っています。神のもとでは男女は平等だとパウロは言っています。その当時の教会といっても、小さな会堂に毛が生えた程度のものか、あるいは大きめの家に住んでいる信徒の家に集まって集団礼拝を行う程度のものでしょう。そこで行う礼拝では、男性は被り物をしないで礼拝を行え、女性は被り物をして礼拝を行えと、パウロは言っているわけです。当時の礼拝は声を出して行うものであり、女性が黙っていては礼拝になりませんね。
こういうことから考えて、「女への沈黙命令」はパウロが言っていることではなく、パウロの弟子が挿入したものだと、私は考えています。
結論から言うと、パウロは女性差別論者ではないのです。冤罪ですね。聖書に書かれていることは無謬だ、神の言葉だ、パウロが言っていることは神の言葉だ、間違いない、と福音派の牧師などはよく言いますが、誤りだと私は考えています。